いつでも至福を選ぶことができる気づき
Q:MARTHさん、私は、あなたのお父様と同じで、国家公務員です。
この腐敗した世界、どうしようもないほど醜く腐りきってしまった世界が、私は本当に嫌でしょうがないのです…。
精神的に耐え難い日々を送っています。できましたらサジェスチョンをお願いいたします。
MARTH:部長、投げやりになってはいけません…。この腐敗した世界は、きっと素晴らしい世界にいつの日か変わることでしょう。
そのことよりも大切なことがあります…。
人は万物から、この地上に生まれてきますが、この世界は、実際はいつであり、なんであるのか永遠にわからないのです。
そして、その万物と呼ばれているものは森羅万象ともいい、真我とも呼び、大我ともいい、神ともいい、愛ともいいます。
そこから生まれてきた私たちは、本当はこの地上、どこだかわからない、この世かどうかもわからないところに出てきて、万物としてそのまま育つならば、私たちに苦しみやつらさはあまりないことでしょう…。
万物が、または神の子が、森羅万象の子がこの地上に生まれてきて、そのまま、森羅万象として、真我として、愛として、神の子として、一体のそのとてつもないもの、分離なく一体の中で無私の中、そのものとして生きてゆくならば、環境がどうであろうが、自らは至福で幸せで生きることでしょう…。そうなのです。
私たちは環境によって、自分の感情や気持ち、そのようなものを影響されなくても本当は良いのです。
つらいこと、苦しいこと、悲惨なこと、様々な環境、状況があります…。そして私たちはそのあまりにも自我にとって苦しい状況、分離された、部分にとって苦しい状況や、つらい環境に対して、苦しみの感情やつらい気持ちを体験することができます…。
しかし、そのような状況や環境に影響されることなく、幸せに本当は生きて良いのです。真我であるなら、愛であるなら、本質であるなら、いつでもそれが可能なのです。
自我だけがそうできないと信じています。しかし、それは間違いなのです。
人は本来万物真我です。人は本来神の子、愛の現れ、なんと呼んでも良いのですが、自我ではないのです。ですから、どんなときも自我で悩まず、至福や、幸せや、輝きやポジティブさを選んで良いのです。どんなにネガティブな状況でも、どんなに苦しい状況でも、自我にとっての苦しみに過ぎず、それゆえにとてつもない自我にとってのつらい状況に置かれたとしても、そこであえて苦しんだり、つらくなる感情を選ばなくても良いのです。
本来の自分は真我であり、愛であり、神の一部です。創造主の一部であるのです。その至福からあらゆる機能的なことを処理できるし、解決可能なのです…。
ですから、愛の現れである人類は輝き、幸せや至福、喜び、それをいつでも万物の視座に立ち、至福を選んで良いのです。
自我にとっての苦しい状況に、天の視座にシフトし、そこから見て一切ネガティブな反応をしなくて良いのです。
そのことが可能である、そうして良いのだということを知ることは、とてつもなく価値のあることです。
通常自我は、自我にとって逆境や苦しいこと、つらい状況や環境が起きたときには苦しくなったり、つらくならなくてはいけない、そのような感情を選ばなくてはいけないとニカワのようにくっついてると信じていますが、実はそれは違うのです。それは自我の分離の視座においての反応であって、そのときこそ、逆に幸せを選んで良いし、至福を選んで良いし、笑顔やポジティブさ、それを選んで良いのです。
とても眠くて起きられないときに身体が動くか。寝たままで良いのなら身体は動くのです。夜中にトイレに行けるのと同じことなのです。要は、起きなくてはいけないと思うと、苦しみが来るのです。それと同じことなのです。
環境が、状況が、自我にとって苦しくても、自我でない視座を選ぶなら、人間は至福の中に入ってゆけるのです。逆に言えば、至福を選んでしまえば、自我ではなくなってしまうのです。
そのことが可能であるということに気づくことは、どんな環境でも、愛を持って幸せに生きられるということなのです。
あなたのような誠実な立派な方が、私の父もそうでしたが…あなたのような尊敬できるような方が破滅してはならないのです。あなたのような方たちが、この世界を担い、美しく幸せにするのです…。
MARTH
2020年3月19日
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