一体であるときの安らぎとは
Q:MARTHさんにお尋ねします。
最近、全人類が、分離の価値観によって、負けるものかとか、勝たなきゃとか、偉くならなきゃ、すごくならなきゃ、バカにされてたまるか、負けてたまるか、今に見てろと、争いながら生きなくてはいけないような社会構造となっていることをつくづく感じます。
MARTHさんは、それは本来の人類の生き方ではないのだ、本来の美しい社会ではないのだと言っておられるように感じるのですが、どうでしょうか。
MARTH:おっしゃるとおりです。この、素粒子の海の中ではすべてが科学的にも一体です。真に科学的に、同じ素粒子と呼んでいる未知なるものでできていて、かつ、つながっていて、宇宙のどんなところまで離れても、一瞬でつながり、ゆえに一体なのです。
すべてがそれそのものでできている世界の中に、私たちは暮らしています。万物のすべて、木であろうが、鳥であろうが、花であろうが、土であろうが、石であろうが、そのすべてが素粒子でできています。そして一体なのです。空間も素粒子でできています。ですから、いつでもどんなときでもつながっています。
人類はそのことをずっと見つめ直してはこなかったのではないでしょうか…。
ですから、敵だ、味方だ、他だ、別の国だ、他人だ、負けるものか、自分と他だ、人種が違う、色が違う、自分は勝つぞ、偉くなるぞ、すごくなるぞ、負けてたまるか、バカにされてたまるか、そのような自我という妄想から来る人生を、生きてきました。
分離という妄想から来る、本当は一体であるのに、その妄想から来る自己をより強く拡大するという、野心や念望、期待にさいなまれているとも言えるでしょう…。
そうしますと、心理的にはいつでも駆り立てられるようにハラハラしながら、いつも強い根性のようなエネルギーを出しながら、人間は自分を奮い立たせているともいえるのです…。
分離していると信じ、そして、部分を(自我)向上させようと必死に戦うわけです。ですから、人は疲れ果てています。クタクタに…それは職場だろうが、学校だろうが、どこへ行っても、自分は負けないぞ、負けないぞと、戦わなければいけません。強がらなければいけないし、部分を向上するのだーと。
もし、それがなかったらどうでしょう。一体だから何にもならなくてよかったら、ありのままでOKなら、一体なら、人を勝たせたり、仲間を尊重したりできます。安らぎます。五臓六腑にしみ渡るような安らぎといってもよいのでしょうか。
そのような自我の拡大や部分の向上する強い力がない場合は、とても安らぐわけです。しかし、そうしたら向上ができないのではないのかと言う方がいるかもしれませんが、実は逆なのです。安らいでいて、愛や愛しさから、感謝から生きているとき、人は美しき時の中に在ります。そこで、自我の野心が消えますと、人はまるで神の子のように美しくなり、安らぎます。そこから行為するということは、そこから人生を組み立てていくことにもなるのです。
ですから真の繁栄や、真の安らぎから来る真の成功や、ありとあらゆる美しきものが生まれ、人々(他)の方々とも共に生きられるようになり、共に勝つことができ、共に愛しみ合うことができ、サポートが得られ、支えを得られ、互いに支え、サポートし、互いに幸せになるということが起こってきます。
それこそが人類の新しい真の世界ではないかと私は感じています。
私は、そのような自分を観るというようなセミナーのトレーナーを長く若き日やってきましたが、そこでは、そのことが一番大きく印象に残っています。
人は、勝たなくて良いとき、抜きに出なくて、分離から自我を良くしなくて良いときにこそ、大変な安らぎが起き、そのときにこそ、真に自我は良くなり、部分は幸せとなり、愛しさに幸せになるのでしょう…。
よく、MARTHさんの音楽は素晴らしく安らぐ、とても愛があると言われますが、その若き日から、私はそのようなものが書けるようになったのです。そして今、非常に安らいでいるから、真に幸せに暮らせているような気がしてなりません。
その宇宙の秘密、一体の秘密、素粒子の秘密を知ることは、真に人類が豊かになり、神の子に帰ることで、人類が素晴らしいものとなるような気がしてなりません。戦いや争いの中には、苦しみやつらさしかないのではないかと、今では想ってならないのです…。
真実は、あなたがどんなに嫌がろうとも、嫌いな人々でも、憎き人々でも、すべてのものがとわにひとつであり、科学的に一体なものであるのです…。
MARTH
2020年3月5日
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