一体性への回帰、無我性こそが愛である…
Q:MARTHさんにお聞きしたいのですが、私は塾を経営している者です。最近はインターネットを使って、パンデミックを乗り越えようとはしています。MARTHさんがいつも言うことで気になることがあります。人は、また子どもたちは、愛がないから苦しいのであって、他の理由ではないというようにお話しされています。私はそのことを深く知りたいのです。お願いします。
MARTH:
先生、おっしゃるとおりです。
確かに人に元から持っている至福というものがないのは、自我という一体性の欠如の問題であると感じます。人間が真に幸せでないのも、ある意味一体性のなさ。要は愛とは一体性のことであって、無我性こそが愛であるのです。愛がないというのは一体性が無いといった意味でもあるのです。
ですから、愛は執着や情ではありません。愛とは一体であることなのです。細胞が身体全体であるということのように…。
そして、自分の受け持つところをしっかり成すという、要は誰もが万物の公務員ということであるのです。元からそうであって、どこにも所属していない。生まれながらに万物の一部であり、万物の子であり、それを神の子と呼んでも良いのですが、私がそう言った言葉を使いたくないのは、神というものが表すものが人によって色々違っていて、どのことを言うのかわからなくなってしまうのは困るからです。
ですから、神のことをあえて愛と呼ぶならば、愛とは一体であることであり、真我であること、大我であることだと、そのように理解しています。
そして、自我が終焉した一体である無我のときに至福があります。
自我の野心がなく、念望や期待がないために、心理的時間が止まっている、そのようなときに人は、本来すでに持っていた、なんともいえない安らぎに包まれます。
それこそが、スピリチュアルな感性が非常に良く働くときであり、メディテーションにおいても非常に効果的になるのです。
しかし、自我で分離しているという感覚のなかでは、何をしていても恐れや苦しみにさいなまれることは起こることでしょう。
それは、ある意味、その恐れは取れてはいけないのです。なぜなら自我になっているよ、分離しているよという天からの、または素粒子からの大切なメッセージになっているでしょうから…。それは、万物・愛の“安全ベルト”といえ、人の本質である愛を守るために、愛の現れである人類の平和を守るために、苦しく、つらくなり、うまくいかないようにできているのです。
その人が一体性に帰するとき、また戻るとき、それが正しいよというメッセージのために至福が訪れ、安らぎが訪れ、愛しさや真の繁栄や、真に続く、とわに続く真の成功がそこにはあるのです。
そしてその美しさは、全人類に波及してゆくような至福であるのです。
私たち人類は、そのような素晴らしき世界を創ることも可能です。
個人個人が万物に帰ることを好み、楽しみ、一体へ帰る、要は古代から賢者たちがずっと伝え続けてきた自我の終焉、妄想の終焉、真の自己への回帰、真我への回帰…ありとあらゆる言葉で伝えられてきたもの…。
それこそが何より大切な、古代からのギフトであるのです。
その一体性である愛がなければ、何を得ても幸せはそこにないし、そのことで、人類は幸せになる人とならない人に分かれてしまうことでしょう。
地位や名誉、お金、いろいろなものに非常にこだわる方も多くおられますが、それは決して悪いものではなく、とても素晴らしいものであるのですが、分離感にさいなまれていたら幸せや至福とは無関係になってしまうことを、それを持っている人々は経験されていることでしょう。
ですから、分離しているということはすなわち、イコール至福がないということなのです。その妄想が美しく晴らされるとき、人は本質である素晴らしき至福に戻るのです。
それをベースに行為するときには、大変な繁栄や、大変な美しき成功が、持続可能な素晴らしい生が繰り広げられていることでしょう。それが何より大切な宝であると、感じてなりません…。
至福という素晴らしきギフトは、自らを見つめ直し、万物一体のものであると気づく時に存在するもので、それこそ皆さんの本当の姿です…。それこそが、皆さんの本当の在り方であり、そこに在るときだけ、真の成功、真の幸せ、真に素晴らしきものを引き寄せることができることでしょう…。
MARTH
2020年4月19日
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