五感と言葉による分離の問題について
Q:MARTHさんにお尋ねします。
最近MARTHさんの文章に触れる機会が多くなってきました。
そしてつくづく本当にそうだなぁと思うようなところが、たくさん書かれています…。
仕事の面においても、家族との問題、また身体の問題も含めて、
たしかにその素粒子の、電子といったことが影響しているようにも想え、つくづく一体性について考えさせられます。
私はそこをもっと深く深めたいのです。アドバイスをお願いいたします。
MARTH:社長がおっしゃるように、仕事においても、家庭においても、また体においても、この分子の、万物自然の世界のなかで、私たちに見えている範囲を超え、その背景には必ず、素粒子の世界、電子の世界が広がっています。その奥にはもっともっと広がっていることでしょう…。そして、今わかっている範囲の中で、原子レベル、素粒子レベルのことだけを見ても、分子レベルでは、腐食酸化するにも関わらず、電子、素粒子、原子のレベルでは腐食酸化しません…。
細かいものになってゆくと、私たち人類がまったく想像を絶するような世界が広がるのです…。
そして、想念や、考えは、その電子や素粒子でできています…。
それゆえに、医学や科学は、死がないのではないかと気づき始めているのです…。
しかし、電子や素粒子は腐食酸化しないのですが、軌道が乱れるということを起こします…。そして、今世界中の量子物理学の科学者たちが、その電子の軌道の乱れを研究しはじめています…。実はそれは古代から決まっていたことで、理解されていたことでもあり、解明されていたものともいえるのです…。また、それら原子が一体の世界のなかで間違って分離を信じるなら、様々な劣化が起き、メッセージが起こる。電子の軌道が…(それを私の友人の科学者はπ(パイ)と呼びましたが…。)円の軌道が乱れるというようなことに、古代の人はつくづく気づいていたようです…。
それを、現代では波動と呼んでいたり、波と呼んでみたりもしますが、実はそれは円を描く電子軌道のことにも起因します…。
その軌道が乱れてゆくというときは、必ず一体性のなさ、分離、または自我、隔たり、といったことに影響することが古代の精神性の高きリーダーたちには理解されていました…。
それらの科学的一体性は当然仕事にも影響し、身体にも、また、その素粒子の海は人生の背景でもあるゆえに、当然すべてに影響するのでしょう…。
それは、土俵とか、またはサッカーや野球でいう、球場のことでもあり、人生の背景、プラットフォームとも、最近では言うのでしょうか。その人生のベースが素粒子の海の中にあり、そこにこの世界が存在しているのです。そしてそれは一体性でできているという確固たる事実が横たわり、そのすべてがつながっているのです…。しかし、つながっていないという認識を人類が持ってしまうと、電子が乱れ、元に戻そうとする力が強く働くと伝承されてきました。それらは、古代の人々には美しき軌道を描く在り方をイヤシロと呼び、電子軌道の劣化が強きところをケガレと呼んできたようです…。
そして、また分子となった様々なものの中に、その軌道を正すものがあることもまた事実なのです…。
古代人は、そのようなものを、癒しの地を創るために、まいたり、置いたり、触れたり、包まれたり、取り入れたり、様々なことをしてきました…。そのようなところから今もリ・ゾート(環境空間)を創り続けています。
そのような、本来美しく回る軌道を、分離の価値観の中に人類がいたとしても、もとに戻すというような、軌道を整えるという力を持った、分子となったもの(特殊な鉱物など)が存在するのです…。
どちらにしても大切なのは、その軌道の乱れを正す、イコール一体性に戻る、これを、目の開いたリーダーやブッダたちは、「無我」と呼びました…。自我の終焉、ノーマインド、様々な言葉で分離を超える試みがなされてきたことでしょう…。ご存知の方は多いと思いますが、ヨガの瞑想といったものを突き詰めてゆけば、五感を必ず外してゆかなければ、真我に帰ることは不可能であることが理解されています。逆に言えば、真我が人間になるために、五感(ある程度の分離感)というものが必要となるのです…。ただし、一体の世界は変わらないのです。
もし、五感がなければ、まっすぐ道を歩くこともできないことでしょう。万物は、または天は、神は、なんと呼んでもよいのですが、その創造の存在の源は、私たちに五感というものを備えることをし、それによって快適で便利に、まっすぐ歩くことができたり、様々なことが可能としたことでしょう。おいしい、いい香りだ、素晴らしい、美しい美だと思えるのも、五感があるからなのです。
それでもなお、この世界のすべてがひとつで一者であるのですが、五感は同時に、自分と他というものを強調し、隔たり感を生む可能性が高いものとなってしまうことも事実です…。
その五感により、本来素晴らしきはずの一体のものが、本来愛する人々が分離感を強め、自と他、といった対立や隔たりを生んでしまうことともなったことは、人類の大変な悲劇であるとも感じます…。
また、始めに言葉を作った、と言われるように、言葉というものの本質は名称付けであり、山とか川とか木とか…。一体のものの部分をなんと呼ぶかを決め、これをなんと言うようにしよう、というように名称をつけ、集まったものが言葉のベースとなっています…。
ですから、良い悪いではなく、名前を名付けた瞬間に、あるものと他を分離してしまうという性質と要素が秘められているのです。
この、2つの問題において、人間は自我(分離感)を強化してしまいました…。これは隔たってしまったといってもよいのです。
この分離化したという価値観を強化することなく五感を楽しみ、分離化なく、無我の中で、自我の終焉の中で、一体であるノーマインドへの気づきの中で、ひとつと気づいた分離がない中で暮らすことは可能でしょうか。そして、分離は真実でないという気づきをもって、一体の愛の世界を感じながら美を楽しむ。かぐわしい香り、味、ふれあいを楽しむことは可能でしょうか。言葉という要は名称を、一体の気づきの中で深く楽しむことはきっと可能なのです。
人類はその方向にこれからとても速いスピードで向かうことでしょう。この方向に向かわないなら、仕事であろうが家庭であろうが、社会であろうが何であろうが、滅びてしまうかもしれないでしょう…。天の喜びを促すことが出来ず、電子が綺麗に回らない背景で、人生を営み、愛に包まれぬ中、悲しみと隔たりの中、苦しみ、争いや戦いや比較、様々な分離の価値観の中にさいなまれてしまうのは必然なのかもしれません。誰もがなにか、自らの人生の中でそのような生き方を良しとできない、納得できないものがきっと生まれてくるのは、万物の一体の部分(子)として、そう在らないでいるのなら、きっと誰もが天の子ゆえに、つらく苦しいことでもあるでしょう。
自分が好きになれないとか、なにか自分がおかしいなとか、深きところで気づいているといった良き心(りょうしん)、そこから反し、あらゆる苦しみや問題、また、問題提議が自らから起こってくることは、良き人生への安全ベルトでもあり…。分離しているよ、目覚めろ!お前は愛だ、お前は神の子だ、その分離は本当のお前らしくない、本来の本質とは違うぞ!というようなメッセージが、あらゆる人に起こってくる可能性があるということです…。
古代の人々はそのように感じ、それを伝承してきました…。
私の一族は淡路島の神代というところ…寺や神社を、また農業を営んできました…。
先祖代々ずっとそのような伝承が深く残っています。
非常に親しい、沖縄の久高島の最後の大君とされた(60年前 没)のお孫さんと非常に仲良くしていますが、久高島でも同じような教育がなされてきたそうです…。勝つな、えらくなるな、すごくなるな、競争や比較をするな…要は、一体で生きろ、自我の終焉へ向かえ、分離を良しとするな、愛を貫く中で生きよ…というような教えです。
ですから、もし分離について、人生についてMARTHお前語ってみろと言われたなら、やはり、一体性や、愛が大切で、この世界は愛でできていて、神々の想いは愛しさでできている、一体である一者であると伝えようとするし、ひとつなる法則が、この美しき存在の世界をどこまでも貫いているということをお伝えすることに、毎回なってしまうのです…。
その深いところの意味は、一体の中では、すべてが源の愛へと帰ろうとする、ということなのです…。そしてまた、その気づきの中、大切なのは、自我という分離の中からの野心や念望の終焉は、人々を至福の中へと導くということについては、また次回お話します…。
MARTH
2020年1月25日
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