人類が一体性に戻るときにある 真の幸せとは:ストーリーズ:MARTHのLast Resort

人類が一体性に戻るときにある 真の幸せとは

MARTH
公開日:2020-02-20 12:30

Q:MARTHさん、世界はとんでもないことになっています…。争いや戦い、支配や隷属、計画的人口削減など、このうえなく醜い世界となって、私たちの前に襲いかかっているように見えます…。そして、どちらの側も幸せな人などいないように見えます…。MARTHさんはどう思われますか?


MARTH:どちらにしても、真の幸せとか至福とか喜び、そして真の成功や繁栄というものは、人間やすべてのものの本質である一体性の中にしかないのです…。ということは誰もが一時的ならば一体性の喜びをきっと経験しているということでもあるでしょう…。言ってみれば、誰もが小さなときから、人が本質ゆえに、ひとつなる一体のときの喜びをきっと経験しているはずだと想うのです…。


万物や神、または天は、一体としてこの世界を創りました。人間だけが、もしかしたらそう思っていないのかもしれませんが、それでもなお、あなたも彼らも…そして万物のすべてが一体として創られています…。しかし、五感と言葉の名称付けといった分離から、また、世の中が、分子レベルでは分かたれて見える世界だというところからも、人は、すべてが一体(ひとつ)であるという大切なことを失ってしまったかもしれません…。



一体でないという思い込み、分離の価値観の中では、真に人が成功することや、真のリーダーになる人がそこから生まれることはきっと難しく、真に民を幸せに自我なく統治することなど、ましてや不可能であることでしょう。

分離の価値観の社会の中で何万年も平和に、分離感なくリーダーシップを発揮できるという人もなかなか生まれないことでしょう。

仮に、イザイヤーナギィードのような一体性を持った美しきハートのリーダーがいたとしても、民が一体性を体得していなければ、争いはさけられなかったことでしょう…。それゆえに、沢山の方々がこの国でも昔から自らを罰し、滅びていったのかもしれません…。

分離観念の中に生きることは、争い、戦いの日々、また、それは自らに愛されないことでもあり、苦しく、つらく、その上、必ずうまくいかなかったり、戦国のようなときであるならば、滅びてしまうのでしょう…。


何事も、一体の愛の世界で分離というものを信じると、必ずうまく行かないことは理解できます。なぜなら、私たちはひとつなる世界の中で、真からその一部、その一体の子なのです。万物はそうできているのです。要は、ひとつなる一体を神と呼ぶならば、あらゆる人が、あらゆるものが神の子なのです。ですから、私たちは一体として生きない限り、争いや支配隷属ばかりとなり、幸せがないのは当然のことであるでしょう…。



もっと具体的にお伝えするなら、一体でないという価値観の中では自我の視点、分離の視点というところからあらゆるものを見、当然自我にとって安全な安定する、また、自我にとっての得なものを必死に追い求めることは、必然なことです…。逆に、その安定を奪い去ろうとするものと必死に戦うこともうなずけます…。誰にとっても本質である一体性からの分離(離脱)というものは、当然そういう苦しみとなることなのです。



その上、自我というものは愛(一体性)を失い、ゆえに恐れを強く伴い、“ああなりたい、こうなりたい” “ああはなりたくない、こうはなりたくない”と必死に願い続ける存在と誰もがなってしまうことであり、愛やハートが傷つけば、誰でもがそうなることでしょう…。しかし、その日から誰もが自分(自我)の安全・安定への期待、希望の塊となってしまうし、本質でないゆえに、悲しみと苦しみの中、生きることともなってしまうかもしれません…。分離感の中では自己拡大、自己高揚を目指したくなり、ありとあらゆる自我を守るものを必死に追い求めます…。そして、分離感から来る比較性から、上に立つこと、下にならないように戦うこと、様々なことが、自我の特徴となるのです。そうしますと、残念なことに、そこに一体性(愛・本質)がなくなり、一体性(自らを万物と一体として見る力)の愛や安らぎ、愛しさや至福、真の安定、安全を失ってしまいます…。


ですから、自我の念望や期待があることにつくづく気づいて、本当の自らの本質が一体であるということに深く気づき、分離感から自由になることはとても素晴らしきことでもあるのです…。

そして人類は、みな愛へ、自らの本当の質へ帰らなければならないことでしょう…。

それゆえに、本質へ帰るために、自らが自我の野心や念望にさいなまれていたと深く気づくことは、何よりも本来本質が持つ至福にとってもっとも大切なことであり、そのことにつくづく気づいて、

人のせいにすることもせず、他のもののせいにもしないときにある本質回帰の力は、大変素晴らしき奇跡を生むことでしょう…。

言ってみれば、自我にとってつらい問題を起こしてくる、トラブルを起こしてくる人たち、自分の夢や念望を壊し、叶えてくれない人たちに攻撃をすることもなく、逆に自分(自我)の期待や念望を叶えてくれないと怒っている自分に気づき、それを手放すことができるときには、驚くことに一体性が戻ってくるのです。

そして、真に美しき世界を生み出す愛の力を取り戻すことができることでしょう…。


あなたはたずねています。幸せはどこからくるか。その答えは、自我の念望が叶ってこそ起こってくるのだと信じることもできます。しかし、そうではなく、それとはまったく違う人類の自らの本質であるところの一体性に真に帰るときにあるものこそ、真の至福であり、真の平和の世界や、愛の未来を叶えることであると気づくことでしょう。

だとしたら、一体性を取り戻すにはどうしたらよいのかとあなたはきっと聞くかもしれません。当然のことです…。

一体性を取り戻すには、あえて間違って分離してしまった自ら(自我)の野心や念望の方に気づくことが大切なのです…。

自らの自我の念望や期待が本当の自分でないことに気づくことで、人のせいにしなくて済み、真の自己を発見することによって、至福に戻ってゆきます。

他のもののせいにせずに、本質でない、万物(神)の子でない自我が(分離が)、必死に安全や安定、高揚、向上を願い、目指し、戦っていることに気づくことは、私は本当は誰であったのか、真の自らが誰であったのかといった本質的問いへの答えであり、それこそ、この世界で最大の美しき可能性を秘めた問いであると感じます。

その本当の自分でない、本質でない自我の念望を手放してしまったらどうなるのでしょうか。それこそが、真我に帰る道であり、素早く一体に帰る法なのです。

その本来の自己でない偽りの自我を手放してしまうと、そこから本来人類が持っていた、すべてとひとつである愛と呼んできた本当の自己に帰り、元から持っている至福や幸せ、とわに繁栄する力、とわに成功する力が現れてきます。なぜなら、本来万物である自らが、本当の自分である万物に戻ったからなのです。

そのような美しき民が増え、美しき国が沢山生まれることでしょう…。



そして、そのような本質へ帰った人々を、古代の人は悟りや覚醒、様々な言葉で呼びました。しかし、それが分離を妄信した世界の中では、幸せとは自我が人に勝つこと、特別になること、えらくなることだと思いこんでしまっています。実際は、本質へ帰ることこそが幸せという美しき気づきを持った人々は、大変なダメージになってしまう自己拡大などは、決してしないのです…。覚醒とは、自らが自我ではなく本当は愛(すべてとひとつ)であったと深く気づき、そこへ帰った人々であり、自我の高揚、拡大を決して求めなくなった人々のことなのです。神の子に戻った、一体に戻った、真我に戻った、何と呼んでも良いのですが、そこに戻った方たちこそ、真に幸せな方々と言えるでしょう。

ですから私たちは、本来それそのものであるゆえに、そこに戻ることが絶対的使命であり、元から持っていた、万物の宝、神の子へ、本当の質へと気づいて戻ることさえできれば、誰もが輝き、真に安らぎ、誰もが真のリーダーになり、誰もが真の民となり、誰もが素晴らしい能力を発揮されることでしょう…。そして、そのとき最高の美しき愛の未来を、すべての人が手に入れることでしょう…。

MARTH
2020年2月19日


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