分離をこえたところにある真の喜びとは
Q:MARTHさん、前回、分離感(自我)から来る期待や念望、野心を超えたところに本当の幸せがあるということについてお話してくださるということでしたので、そのことをぜひ、続けてお話しいただきたいのですが。よろしいですか…。
MARTH:当然です…。この前お話しいたしました、人類が本来一体の世界の中で、その真実であるところの愛(一体性)を失ってしまうとき、また、自我の形成においての仕組みのひとつは、本来便利で素晴らしきはずの、“言葉”というものが秘めた分離という大きな問題でした。もうひとつは五感という本来素晴らしきものが、一体の気づきを持たずに機能される場合、ある意味分離を促してしまうということをお話しました。
そして人類は、その五感の、また言葉の、ある意味でのその便利さと素晴らしさ、美しさとともに、その危険性についても共に調べてきました…。それは素晴らしきものであっても、一体の気づきの在り方を持っていなければ分離を生んでしまう、そして、分離を生んでしまうと、素粒子レベル、また電子レベルでは軌道が乱れてしまう。なぜなら、すべては一体の世界で、愛の世界であるから、と語り合いました。神とも、創造の主とも呼んでよいのですが、その万物自然の中、真我の想念で出来ているこの世界は、一体によって、愛によって、神聖さによって出来ている世界であるゆえに、愛へ帰そうとするメッセージが存在するとお伝えしてきました…。
ですから、その一体性を大切にして生きなければ、愛を大切にして生きなければ、あらゆるものが劣化してしまうのではないかということについて、掘り下げてきたわけです…。
同じ仕事でも、同じやり方でも何故か結果が違ってしまう。どうあるか、更に科学的にあえて言うならば、電子がどう回っているかがベースとして在り方としてある…。身体の治療であろうが、心のことであろうが、家族の問題であろうが、仕事の問題であろうが、同じことをやっていても、同じ製品を作っていても、やり方だけではなく、どんな想いが影響するのか、素粒子がどのような状態であるか、電子がどのように動いているのか、電子レベルでのこと、そこまで人類は今まであまり見てきませんでしたが、それは目に見える世界は分離して見える分子の世界であったからです。
しかし、ずっと古代より、それら素粒子の海の影響は感じられてきたものであり、人類はこれからその領域に深く精通し、入ってゆくことになるのです。どう在るのか、どういう場なのかを大切にする時代へ、愛するのか、分離の中で生きるのか、そこがけがれた場なのか、癒されの場なのか、これを「イヤシロ」と古代の人は言いました。そして「ケガレ」というのは、電子が乱れている状態です。
そして、私は、与論島のプリシアリゾート、これはπ(パイ)ウォーターリゾートというものを20代の前半に創りました。今でも愛の本質の一体性の科学を駆使した真の楽園を創り続けています。そして、現在ではヒーリングというような癒しの岩盤浴機器の本質的企業も営んでいます…。それもすべて、電子の乱れを元に戻すということについて、取り組んできたからゆえにです。
それは18歳のときに量子力学の先生によって学び、取り組んできたものです…。その人は東大の元農学部の先生であったのですが、まったく草しか食べていない動物たちが肉になる、どこかで常温核融合が起こっている、それは腸内細菌なのでは、ということで、彼は原子の世界を調べに入ったのです…。そしてとことん量子の世界に魅了されてゆきます。それにより、彼は東大の農学部をやめなければならなくなったのです。
私は18歳のときに彼と知り合い、その彼のスポンサーとなり、量子力学を取り入れたリゾートを創りました。そこから私の人生は、電子の軌道が美しく回る、要は原子核の周りを回る電子の軌道、そしてそこから及ぼされる波、そのようなものに気づいてしまったゆえに、そしてそれが古代の知恵、また、スピリチュアルの世界と驚くほど共通していたゆえに、それらへ強く向かおうとし、その想いを秘めながら事業を営んできました…。
ですから、いつも大切なのは在り方と感じてきました。どうあるのか、どんな場にあるのか、どんな美しき癒された環境の中に存在しているのか、それが工場であろうが、作る人であろうが、関わる人であろうが、スタッフであろうが、株主であろうが、音楽をつむぐ人々であろうが、ありとあらゆる人が愛に満ちている、一体性をもって存在していることが何より大切で、何よりそれが必要だ…というように、若い頃から感じていました。
また、そのような未来の真実をお伝えすることは様々な抵抗も生み、やはりそう思っていない方々からの誹謗中傷はありましたが、それでも許しをもって、まっすぐ、ただただ愛の道を進んできました。そうすることが、万物が喜び、天が喜ぶことだと深く感じながら今も生きています…。
そして、分離の問題です…。分離というのは、今までこの世界では「自我(エゴ)」というように呼ばれてきました。そして、この分離というものの元は、五感と言葉の影響が強く、それらは決して悪いものではなく、便利で素晴らしいものではあるのですが、この世界を分離的に見てしまうという弊害もあり、それゆえに、この世界は一体でない愛でないということに帰結してしまっては元も子もなくなり、それゆえに分離してしまうことは、真実から離れてしまうことなのです。
やはり、愛を失うということは、万物にとって、一体なる素粒子で出来ている人類にとって、この一体の世界の中では決して良いことではないのです。恐れや不安、また疑い、比較、競争、戦い、殺し合い…。ですから、古代のモーゼたちも、「だますなかれ、殺すなかれ」と伝えています。しかし、実際は分離するなかれ、と言った方が正確であり、すべてはひとつであり、一体なのだという気づきが大切です。そして、もっと超古代から続く伝承によると、この世界は未知で神秘でこの世ではなく、すべては一体で、その本当の質は愛であり、ひとつであるとされ、その本質は、五感を超えて、言葉を超えて、すべてがつながっている、ということが残されています。その、ムーと呼ばれた文明の、古代の知恵、それと古代ユダヤの知恵はほとんど同じことを伝え、日本の色即是空の価値観とも似ています…。
ということであるならば、あらゆる宗教性やニューエイジ、あらゆるヴェーダを含めたありとあらゆるスピリチュアルの元は、一体であり、未知であり、神秘である、この世でない、すべては想念のようなものであり、神の夢のようなものであり、それはまるで色即是空、そのような世界であると伝えられてきたものと同じではないかとまで感じてなりません。
また、自我を持つということは、自我を防衛するということに当然つながります。それは自然なことでもあり、そして、そこから当然、自分が良くなりたい、安全になりたい、勝ちたい、得したい、負けたくない、やられたくない、などなど、自我(分離)の当然野心や念望、期待が生まれます。そこで私たちは考えなくてはなりません。
自我の期待や念望が叶ったときだけ、幸せが良いのか、それとも、自我の期待や念望がなくて、いつでも幸せが良いのか…という問題を深く掘り下げなければいけません。
それこそが、古代から賢者たちが伝えてきた無我や無私のすすめであるのです…。本当に自らが癒されるのはどちらなのか…。自ら(分離)の念望や期待「ああなりたくない、こうなりたくない、これは嫌だ、あれは嫌だ!この自分の期待が叶ったら幸せだ、叶わない限りは、自分は苦しいぞ!」が良いのか、そのすべてが叶う、叶わないに関係なく、自我の念望や期待が存在しない、自我の野心や恐怖や恐れがない状況のどちらが良いのか、自分が扱えるようになる、そして自分がイヤシロとなる、自分が安らぐ、あらゆる野心が消えてゆく…さぁ、どちらを選ぶのか、ということが、古代の目の開いた人々が伝え続けてきた、「分離の終焉」「一体性への気づき」「無我」ということであるでしょう…。
無我というのは決して難しいものでも、決してつらいものでも、苦しいものでもないのです。欲を捨てるようなものでもなく、一体である自然に気づき、帰るとき、自我が気づきによって自然ととけて一体に帰る時、ひとつなるものに帰するときに、人は安らぐのです。なぜなら、自我の期待や念望が叶わなくても、分離感がないために幸せだからです。自我の念望や期待、野心が手放されてゆく喜びと、自我の念望や野心をなんとか叶えたいとする自我のもがきによってある喜びとどちらがよいのか、といったときに、人はなぜか、自我の野心や念望を叶える方を選ぶのです…。
そのために大変な苦労をし、大変なケガレをしょいながら、戦い、比較し、苦しむのです…。現在の地球、この社会は分離の戦いの中に在るのです…。
ですから、古代の真のリーダーたちは、無我に戻る、妄想である自我の野心から開放される、自我の念望から開放される喜びを伝え、それを無我無心と呼び、伝えたのでしょう。素晴らしい世界がある、至福であると伝えたのだと、感じてなりません…。以上、そのことについては、またお話ししましょう…。
MARTH
2020年1月25日
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