古代から伝わる真の成功の法則とは
Q:MARTHさんはよく、古代から伝わる伝承や言い伝えからの真の成功や繁栄についてお話されています…。私はそのことに大変興味を持っています…。
私は大学で講師をしております…。今の若い人たちの興味は、やはり金銭です。決して金銭が悪いものだと思いませんが、しかし彼らが本当に成功できるのかどうか、そう聞かれても、真に豊かで幸せになれるのか、私にはわかりません…。
古代からの法則の様々なことを、お聞かせください…。
MARTH:わかりました。どこまでお話してよいかは、正直わかりません。ただ、超古代文明は今の価値観でいうと非常に一体性を重んじ、かつ色即是空的世界観、または量子力学にも、とても似ているというように感じます。
たとえば、今ここはこの世ではない、現実でもない、永遠にとわに未知で神秘なところである、そしてそのすべては一体なものであると…。そして、この世界は一者による想念でできているなどなど。そしてその子どもである私たちはそれぞれに部分的な創造を任されている…など…。
ですからこの世界は、まるで物質映画的もので、未知なる神秘なるところであるといえ、美しきひとつなる場ととらえるのが自然である…と感じます…。それこそが、古代からの真の伝承ではないのかと感じます…。
ですから、たとえば日本語で表そうとするなら、和するときにこそ、そして一体に帰しているときこそ、その人は真に繁栄し、成功するといえ…逆に、一体からずれたときには、戦いや分離、恐怖、様々な自我的要素によって苦しみの中に入ることとなり、その自らを目覚めさせようとするメッセージによって、苦しみの中に入る…と感じます…。それをたぶん古代の方々はバチと呼んだのだと想うのです…。
この在り方は、現代の量子力学の解明してきた気づきと非常にぴったり合っている部分です…。それがずっと伝わったゆえに、この国は美しきハートの人々がまだまだ多く残っていると感じますし、縄文と呼ぶ時代はそのために、争いや戦いが少なかったのかもしれません…。そして、シュメール文明もまた、その一体性をその文明の出先機関として伝えた可能性があります…。
それゆえに、それがアブラハムや古代ユダヤの人々に伝わっていったという伝承と共に、その可能性を表し、秘めています…。
そして、その色即是空的なもの、未知で神秘でこの世でない、空(くう)であるということについては、ソロモンも「空、空」と何度も何度も言っていることで見てもとれます。それは景教の流れを見ても明らかです…。
また、そのようなところからして、自己犠牲という愛の価値観は、彼らの文明の様々なところから見て取れます。イエスにしても、アブラハムにしても、自我を縮小しようとする精神が見て取れ、自分の子どもに厳しく、自分の子どもよりも他の子どもを可愛がり、自分の子どもには一体性を説き、厳しく育てるといった傾向が見られます…。そして同じように、偉くなるな、すごくなるな、謙虚に生きろ、小さく生きろ、そのように伝承する、そのような性質も見て取れます…。それは真の帝王学にもつながり、美しきハート創り、やすらぎへといざなうものでもあります…。偉くなるな、すごくなるな、といった、要は自我を太らせぬような、一体の世界、和する世界への気づきは、うぬぼれたり、過信したり、敵対したり、劣等したり、怖がったりすることを縮小させ、人を愛へと導くものでもあるでしょう。ですから、その価値観によってやすらぎを得て、それゆえに真に豊かに、真の成功をとげるのでしょう…。
すべてのものが一体で、万物のあらゆるすべて、動物や花や、木々や大地、海などのすべてのものとひとつなのだから、やすらいで生きてよいのだよと伝えられてきたのでしょう…。
そのとき、真に人は、そのやすらぎゆえに繁栄し、真に成功すると、伝承は伝えています…。ですから、現在でも沖縄の久高島では子どもが生まれると、偉くなるな、すごくなるな、小さく生きろ、勝たなくてよい、一体なのだ、強がらなくてよいと伝えるそうです。また、私の先祖の地、神代においても、代々伝わることが同じです。
すべてはひとつなのだから、偉くなる必要などない、抜きに出る必要などあるものかと伝えられ、すごくなるな、勝とうとするな、恐れるな、いや、逆にいうと、勝とうとしなければ恐れは消えてゆくと、子どもたちは習うのです…。それは、分離というものがそもそも自我という分離からくる恐れの元でもあるからなのでしょう。
ですから、この宇宙が一体であり、ひとつである、つながっているという美しき気づきは、人類を真に癒やすことでしょう…。そして、この世界は本当は現実ではないとか、想念でできているという可能性や科学的事実を、私たちはきっと研究しなくてはならないのでしょう…。
科学者の方々はそのことを本当に追求し、今こそ調べる必要があるのではないでしょうか…。
偉くも、すごくもなりたくない、勝ちたくもない、というとき、勝つと思うな、思えば負けよ、の話のように、人は真に共に安全となり、豊かになって、真にみな勝利するというようなことがずっと伝えられてきたのでしょう…。
特に古代ユダヤの中でもユダ族の方々は、自分たちのユダ族の中からイエスが出たようにメシアを輩出する使命、またはイザイヤーナギィード氏のように素晴らしい長(おさ)、リーダーを輩出するということを目的にそのような真の教育をしていたという可能性まで、見えてきます…。
素晴らしき指導者、素晴らしい愛のある人を生み出すのに、自己拡大、自己分離を肯定しない、逆に言えば、それによってハイヤーセルフが自らを罰することがないよう、子どもたちには小さく、偉くなろうと、勝とうとせず、一体感を大切にし、生きたのでしょう…。人を滅ぼそうとか、人を倒そうとかを学ぶなら、愛また創造の万物の子は、きっと苦しむことでしょう…。自らを好きになれないことでしょう…。
それゆえに、彼らの父母は人を傷つけるな、人と見える同胞を大切にし、ましてや負かそうとするな、抜かそうとするな、と育てるのでしょう…。
他と見える本当は自らを大切にし、逆に自分の子どもには厳しくそのことを伝えようとするのでしょう…。
そのときこそ、真のやすらぎある、真の癒しがある、そこから真のリーダーが生まれ、そこから美しいハートの人々が生まれる…ということともなり、逆に、分離や勝ち負け、自我の様々な恐れを信じてしまうと、やすらぎや癒しを失い、人は非常に攻撃的にもなり、また、その分離の感覚から、かわいそうなことですが、恐れやつらさ、また、心悩み苦しむことにもなりかねません。また恐れや怒り、高揚から犯罪にも関わる可能性まで強まるのかもしれません…。
私の父親は法務省で、東京地検というところに出向していました。そして毎日取り調べをしていました。そのときに、やはり、犯罪を犯す人たちが苦しんでいるのは分離です。分離感は苦しみです。要はそれは自我ともいえるのですが、一体である、和するというところから非常に離れ、一体性から遠く薄い傾向もあると悩んでいました。彼は、法務総合研究所というところで、若き日は犯罪を終わらせたいと願う研究者でした。私は、そのときの精子です。ですから、彼らはある意味苦しんでいる生徒さんであり、本当はそのような大切なことを伝え、教えるのが刑務所でなければならないと、つねづね父は口癖のように言っていました…。
彼の一族はずっとそのようなことを伝えてきた、千年続く、また母方も、両方とも寺や神社でした…。
ですから、彼らはそのことで価値観の共通点があり、結婚したそうです。それは彼らが亡くなったあとに彼らのラブレターが出てきて、彼らの会話を見たときに本当にそうなのだなと、感じました。
私は小さいときに、人に勝とうとしたり、偉くなろうとしたり、うぬぼれたり、過信したりするとひっぱたかれました…。しかし、そのことでひっぱたかれることをいけないことというように感じませんでした…。逆にある意味幸せでした。善良な感覚が逆にあったのです。
私は友を勝たせること、友を幸せにすること、仲間たちと共に生きることが大切だということ、自分が抜きに出ようとしたり、勝ったりしたら、運動会でも怒って父は帰ってしまいました…。
子どもの頃はなぜそうなのかよくわかりませんでしたが、今となってはつくづくそのことが理解されます…。
勝つな、偉くなるな、すごくなるな、偉くなろうとするな、小さく生きろ、それでいい、素朴に生きろと、敵対するな、戦うな、悪い人のことも非難するな、純粋に生きろ、他の人を逆に守ろうとしろと…。
逆に言えば、古代ユダヤから生まれたイエスのように、また、美しい長(おさ)、リーダーの人たちのように世界の罪をかぶって、自らを犠牲にするほどの愛を持てと、習ってきたのかもしれません…。
先生のご質問の答えとなったかはわかりません…。私の言うことはくだらないことかもしれません。また、みなさんにいうべきことではないのかもしれませんが、たぶんご質問の意図はそのようなことと察し、お答えしました…。
私は自分の子どもに、めだかとかしじみとか、小さく生きれるような名前をつけました…。私の父が私につけた名前は透でした。透き通る、ただただ透明な心でいなさいと…。抜きに出るとか人に勝つとか、よくなるとか、すごくなるとか、そのようなことは一切考えるなと…。そのことが真に正しいのかどうかはわかりません。ただ、そのおかげでなぜか幸せです…。きっとそれは自我の野心が縮小し、心理的に時間が止まって至福の中にいつでも帰れるように感じるからかもしれません…。
MARTH
2019年12月26日
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