失うということについて
Q:「失うほどに大きくなる愛のように」の詩が、
私はとても好きなのです。
MARTHさんは、どのようにあの詩をとらえてお書きになったのでしょうか。
MARTH:私たちの誰もが、この一体なる美しき愛の世界の中に生まれてきます…。そして幼少時、五感や言葉といったものによって、自我というものを形成してゆくのかもしれません…。すべてがつながった一体の未知なる神秘なる世界の中からやってきた、私たちは徐々にこの世界の中で分離という感覚を持ってゆくのでしょう…。自分と他。そしてそれは、ある意味一体の世界から少しずつ離れてゆく、ちょっと悲しい出来事なのかもしれません。そして、その分離感は一種の妄想的なものにすぎないものなのかもしれないのでしょう…。真実は、目覚めた人々が言うようにすべてが一体の海の中、とわに無我であるのかもしれません。
自と他という分かたりは、本当は悲しき妄想で、すべては永遠につながった一体物であるのかもしれません。
また、この世界のすべてが一者の夢である可能性すらあり、本当はこの世界は、こよなく美しい創造の主体の夢であるとも、言えるのかもしれません…。
そしてそのなかで、私たち人類は個々の人生をその部分の想念によって創り上げる能力を持ち、与えられているとも言えるのでしょう…。
どちらにしても私たちは、その自我、自分、自己を守るために、様々なものを、様々なアイテムを生きる上で身に着けてゆくのでしょう…。
分離の価値観に染まってしまった悲しみの社会の中、人からやっつけられないように、負かされないよう、殺されないように、日々心配し、努力し、様々なものを身に着けてゆくのかもしれません…。
それは、日に日に重くなり、鎧のようになってゆくのでしょうか…。
人生は、重い荷物を背負って坂道を登るようなものである、というような詩を昔書いたことがあります…。一体の真実からそれてしまった私たちは、日々強まる自我を形成することでしょう。その自我を守るために集められた様々なものは、もしかしたら、本当はガラクタにすぎないものなのかもしれないのです。
そしてそれはとても重いのです。地位や名誉、資格、力、名声、名誉、その競争や比較から生まれた悲しみ、様々なもので形成されたその重荷は、私たちの人生において、なにより必要なものととらえられてゆくかもしれません…。
しかしそれを失ってゆくときに、逆にとてつもない開放感や、とてつもない美しきやすらぎを感じるということも、またあるのかもしれないのです…。
自我を持つということは、自我を守るために心理的時間が発生することともなり、心理的時間が発生すると、本来もっていた万物の、そして真我の、また一体の、ひとつなるものの特権のような美しきはかりしれないほどの至福を失います…。
自我を手に入れるということは逆に、一体の喜びを失うということともなるのです。
自我を失う、また、自我を守っているものを失うということは、一体を得る、愛を得るということにもつながります。
そのことは、私たちの人生において、何よりも大切なことでもあるのかもしれません…。
荷物をおろして、必要ないものが手放されたとき、人は愛へ帰る、本質へ帰る、愛しさへ帰る、やすらぎへ帰る、真の自己、真我に帰るとも言い伝えられて来ました…。
それは無我とも呼ばれ、真我に帰すること、一元に帰することとも、呼ばれてきました…。
私はそのことを音楽や詩において、みなさんにお伝えしてきたにすぎないのです…。
MARTH
2019年12月27日
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