自らはいつも万物全体であり、部分の私などいないという気づき:ストーリーズ:MARTHのLast Resort

自らはいつも万物全体であり、部分の私などいないという気づき

MARTH
公開日:2020-04-07 14:42

Q:MARTHさん、質問です…。MARTHさんは、

光と闇についてどう思われますか。


MARTH:そのどちらでもなく、万物全体として愛で生きたいと願います。闇も光もすべてを含む、ありとあらゆるものを、善へと導く、愛へと導きたい。そうありたいと願うのです。一体性・愛しさ・至福にあらゆるもの、あらゆるところが、あらゆる部分が、あらゆる人が、あらゆる生命が、そのように一体性を持った愛で機能してほしいと、真に願います…。

もし、どこかの全体の一部に所属すると、それは部分になってしまい、苦しくなってしまいます…。

皆さんにわかってほしいのは、真に幸せになる。至福で生きる。安心する。安らぐといったあらゆるものは本当の自己、真の自己、真我と呼ぶ万物のすべてであるという本質にあります。

本質は、愛です。一体性、万物との一体性です。

ちょっと例にあげてみましょう…。

たとえば、私たちの肉体の中の細胞が独立したと信じ、自分だと思ったら、あっち側はこうだ、この部分、心臓はこうだ、というように自分は腕の細胞だから、独立しているから、他のことは関係ないというように捉えてしまうでしょう。本当はつながっていて、一体なのですが、そう思えなくなってしまいます。それは、言葉による名称付けと、便利なために生まれた五感の影響もあることでしょう。それでも、分離は事実ではないのです。

ですから、愛へ還り、腕の細胞さんも、自我を終焉させて、一体に戻ると本来万物が持っていた一体の幸せが、至福が出てきます。

そのときには、身体全体が自分となります。

悪いところ、良きところ、いろいろあるでしょう。

でも全部が美しく健康に、幸せになってくれることを、願います。

そのために、尽力もすることでしょう。人の闇が生まれるのは、闇がすべてが自らであるといった、万物性を見失い、他があると信じ、その誤解からそれと戦い、恨み、憎んだゆえにあるもので、苦しみはその自浄作用であるのです。自らが、万物の本質である愛の現れであることを見失ったときに、生まれるものなのです。

真の一体性とは、本当の自分は、万物全体であるという気づきに、他なりません…。万物全体の中に、また万人全体が自分である、という気づき。という、愛の立ち位置に他なりません…。

そこから生きるときには、人はあらゆる分離や、そこから生まれる闘争、比較、自己拡大、自己の恐れ、自我の恐れ、あらゆるものから解放され、全体となって至福として生きることが可能なのです…。

そして、それゆえに、自らはいつも万物全体であり、部分の私など存在しない。部分など存在せず、すべては一体につながっている。部分は観念に過ぎないと気づくのです。部分(自我)は、想念によって、また五感によって、名称付けによって生み出された妄想に過ぎないのだと、いつでも気づきたいのです。なぜなら、いつも至福でいたゆえに、そうするのです…。闇も光も、すべての方たちが愛へと還れるように、MARTHは願っています…。

MARTH
2020年4月7日

お名前: メール:

※コメントは承認後に掲載されます。