自我からの恐れや念望、期待の終焉について
Q:MARTHさんにお尋ねします。私は大学で教鞭(きょうべん)をとっています。私の友人に、医者をやっているものがおります。たぶんMARTHさんよりも歳(とし)は上だと思います。彼は私にMARTHさんのことについて、話してくれました。彼は、MARTHさんのプライベートスクールのような個人的授業を受けているということでした。彼が言うのに、MARTHさんは量子力学的なところから、一体性ということを非常に強調している、そして一体性イコール自我(非一体性)、そこからの恐れや、そこから生まれてくる念望や期待の終焉について、特に細かく深く掘り下げていると聞きましたが、私は非常にその内容について興味を持ちました。どのようなものか、そこのところをお伝えいただけないでしょうか。
MARTH:スクールと言うほどのものはしておりませんが、個人的に仲の良い人に、インターネットを通してなどプライベートワークショップ、コーチングをしているだけなのです…。その方は、医者をなさっています。ということは分離の世界で長く生きてこられた方でいらっしゃることでしょう。分離科学の中でとことん物事を見てこられた、専門性を持った方だと想います…。ですから、逆に一体性というものを深く掘り下げてゆくときには、そのことが大きなハードルになってくるのかもしれません。そして、特に一体性を実際に感じる、体験するというときは、非常に困難を伴うことであるかもしれません。
ですから、私は今先生がおっしゃるようなところからきっとお伝えし、共にワークをしているのです。そこで、まず、この世界がなぜ一体なのか。また、創造の主体は、別の名として神とも呼ばれますが、なぜその神と呼ばれるものは、一体(愛)の世界が持つ至福や幸せを人間に届けたのか。そのようなことを調べることが、まず大切です。
そこを掘り下げようとするときには、分離の恐れから生まれる、自我の念望や野心が消えないと、至福が起きてこないといった問題にあたるのです。万物が創った幸せや至福を体験するには、自我の終焉が伴って初めて起こってくることに気づきます。真の幸せ感や、安らぎ、至福といった癒しは一体のときにあり、自我(分離)の野心が、かなったときにあるのではないのですが、それを人類は誤解してしまっています…。
幸せや至福、喜び、安心感、そこから生まれる真の繁栄や豊かさ、持続可能な喜びの成功の輝きといった、創造の主体が創ったありとあらゆる本当に良きものは、自我の野心や期待が終焉したときに本当はあるのです…。自我の念望が叶おうと叶わなかろうと、自我の期待が終わらなければ、真の無我の至福はないのです…。分離の念望から自由となり、離れ、一体へ帰ったときにこそあるものなのです…。
ですからその体験をするためには、分離という間違った価値観である自我の期待や念望に気づいて、それを手放してゆくときにこそ、あるものであるのです…。
私たちはとかく、自我の念望、期待を叶えようとします。今日一日、また明日、自我の念望が叶うように、叶うように、と試みます。自我の欲求のない至福を得たいとは、なぜか思わないのでしょう…。
それゆえに、自我は分離社会の幼少時の痛みなどの影響もあり、そこからまた期待します。そうすることで、その一日は心理的時間が発生し、本来は持っていた万物からもらってきた安らぎや至福は消えてしまいます…。苦しみやつらさといったものから逃れたいとする、子供のときの自我の野心というものは、3歳から5歳くらいまでに形成されたものです…。
人によってそれぞれ違うのですが、今のこの分離社会の中では、比較的自我は早くに形成されてゆきます…。そんな中、自分が死ぬとか、終わるというように、またこの五感が感じるところが自分だというように捉えるようになるので、余計にそう感じることでしょう。
そして、言葉の影響もあって、この世界を分離したものと、子どもは捉えてゆくのです…。
そこから形成された自我は、分離社会の痛みのなかで、つらいこと、嫌だと感じた子供の頃の思い出る、“ああなりたい、こうなりたい、これは嫌だ、あれは嫌だ”、そのような苦しみの中や幼少時の体験の中で、様々な期待や念望をいだきます。そして、本来万物の子が持っている、一体ゆえの至福が失なわれてしまいます。そしてそこから、大人になっても毎日恐れや反発で暮らすこととなるでしょう…。
そしてその期待や念望のために、幸せや至福、安らぎは消えてしまいます…。そのことをとことん深め、突き詰めることがそのワークの真髄でした。なぜ天は、万物は、また創造の主体は、この世界を一体に創ったのかという大きな大きな問題、素晴らしき問題です…。そうなっていれば、その至福や安らぎのため、必ず人間は無我へと、一体へと戻ろうとします…。それは愛への安全ベルトであったのです…。
それゆえに、一体や無我から離れれば離れるほど誰もがつらくなり、苦しくなり、自暴自棄ともなり、メッセージも起こしてゆきます…。そこから、期待の反対側の苦しみまでも、自ら創造力をもつ子ゆえの悲しみの結果を創ってしまうということが見えてきます…。それゆえに、愛の世界の秩序を真我こそが守っているとも見えてきます…。そして、そのことを研究するのが、私たちのテーマであったのです…。
きっとその先生は、そのことを深く気づこうとされたのではないでしょうか…。
MARTH
2020年1月29日
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