Q & A どんな時も自らの愛を失わないこと
Q:MARTHさんは、分離の問題点について、いつもお話されます…。私は、人が怖いからものが言えないとか、きっと私のことだから、トラブルになるんじゃないか、今日も問題が起こるんじゃないかと不安になったりもします。また怒られるんじゃないかとか…。それと分離の問題とはどのような関係があるのでしょうか。
MARTH:分離というのは、一体に反するという意味なのです。この世界は素粒子の海であり、一体であります。それは、ある意味物質映画みたいなもので出来ていて真の現実でもないのですが、しかし、それは美しく一体なものでもあるのです…。一体なものの中で、そのある部分が一体でない反応をすると、それは当然メッセージを起こさせます…。逆に言えば、素粒子の海、電子の海の中では、人間にとって一番大切なものは、愛であり、一体であるという気づきを持って生きることなのです…。それが、素粒子レベルでは、又あらゆる意味で、自らを幸せにするし、トラブルをひいたり、問題をひいたりしないということでもあるのです。現在の文明は、まだそのことに気づけずにいて、分離からくる戦いや比較、防衛、不安を抱えて苦しんでいます…。それを超える文明を、今人類は生み出そうとしているのです…。
それでは、問題を見てみましょう…。怒られたとか、イエスのように殺された…なぜ彼は恨まないのでしょう。なぜ、憎んだり、猜疑心になったり、きっとああなっちゃうんじゃないか、と思わないのでしょうか。それは、愛を失いたくないからではないでしょうか。きっと大切な真に素晴らしい一体性を失いたくないはずです…。なぜ、本質を失い、悪くなってしまった人々のために自らの宝である、美しき愛しき一体性の愛まで捨てなければならないのでしょう…。
この宇宙やこの世界で、この素粒子の海の中で、愛であること、一体であることほど素晴らしく生きれることはないのです。それをなぜ、分離を信じ、敵となった方たちのために失わなくてはいけないのでしょうか…。やっつけてくる人、さげすむ人、攻撃してくる人、嘘をつく人、その人たちのために大切な愛や大切な、ゆるす大きなハートまで失ってもいいのでしょうか…それは、万物らしい美しさの一体性です。あらゆる良いものが、運の良さや輝きまで、あらゆる素晴らしい永遠の命が入っている大切なものです。それをなぜ、失わなくてはいけないのでしょうか。恐れを持つということは、分離が原因なのです。分離を持つということは、恐れとなるということでもあるのです。ですから、自分の中に恐れや怒りがあるというのは、分離感がとても強くあるという意味なのです。そして、分離感なく幸せに生きているときに、やっつけられた、馬鹿にされた、嘘をつかれた、インターネットで、嘘で非難された、それはそれで良いのです。でもあなたは、相手を攻撃もしていないし、分離を信じ、相手をやっつけてもいないのです。だからあなたの愛は、あなたの素晴らしさは、一体性は美しく保たれています。その素晴らしい宝を、相手の悪い意図のために、または、その一体性を知らない相手の方のために失ってよいのでしょうか。私はそう感じてなりません。そのようなことをして、トラブルになったり、気づきの欠如のために人生がダメになるのはその人たちだけで良いのであって、なぜ自分までも悪く言われた上に、愛を失うようなことに巻き込まれなくてはいけないのでしょうか。分離の妄想の中で悪い人をさばくということは、悪い人たちと同じように自分も分離するということになってしまうのです。ですから、真に賢き者たちは、そのようなものをさけ、その方たちにあわせないのです。悪い人に、また、悪いことを信じた人に、分離を信じた方々の攻撃や嘘やインチキ、ありとあらゆること、仮にイエスのように殺されたとしても、殺される上に、戦いや恨みの人間となって、愛や一体性まで失うのでしょうか。また、恐れとなって嘘をつく争いの人間にならなくてはならないのでしょうか。それによって、宇宙から、真の自己から罰せられることになるのに、それをしなくてはいけないのでしょうか。やっつけられたり、嘘をつかれたり、何の罪もないのに殺されたりするのに、そのうえ永遠なる愛まで失うのでしょうか。神の子としての美しさまで失うのでしょうか。そのように、損なことまでなぜしなくてはいけないのでしょうか。ですから、イエスが刺されたとき、磔(はりつけ)になったとき、愛を失いたくなかったと思います。一番大切なもの、神の子、いや、万物の子、愛の現れを、なぜ失わなければならないのか。一番美しくて尊い、とわに続くかもしれない一番素晴らしい愛まで、分離を信じた、殺してくる分離の妄想で正義を失った人々によって、なぜ破壊されなくてはいけないのでしょうか。なぜ自分まで嘘つきや、恨む人や、憎しむ人や、自己拡大欲が強い、負けず嫌いの分離の激しい人にならなければならないのでしょうか。そのことに気づいていたら、決してそのようなことは、損であるからしないのではないでしょうか。私は、そうやって人生を生きてきました。自分がいい人だからではありません。大事なものを守りたいからです。なぜ、相手の問題であるのに、自分までが愛を失わなきゃならないのか。一番の宝を、先祖代々ずっと守ってきた愛を、ずっと守ってきた寛大さや、謙虚さ、愛しみや愛しさ、そして喜びや配慮、聡明さを、なぜ捨てなくてはいけないのでしょうか。ああなっちゃうんじゃないか、こうなっちゃうんじゃないか、という深層心理の恐れを持ち、素粒子の海の中で物質化しなきゃならないのでしょうか。自我が強い、分離が激しい、悪くなってしまった、そのような同胞の万物たちに、コテンパンにされた。そこまではよいのです。自分はまだ愛を失っていません…。それをゆるすことや愛することは、相手のためではないのです…。自分が大切なものを失わないことなのです。愛を失わない、愛しさを失わない、イエスが、あらゆるものをゆるすのも、そのためであったのではないかと、想ってしまうほどです。少なからず、私はいい人だからではありません。自分が素晴らしい、万物からもらったこの未知なる神秘なる、この世でないようなところで、この世で何より大切と想える愛や寛大さ、謙虚さや小さく生きれるハート、他への思いやり、とてつもない、量子学的に言えば現実でない世界から、その一体性という宝である愛を失いたくないからなのです。そして、自らを罰するようなことには決してなりたくないのです。ご理解いただけましたでしょうか…。
以上です。
MARTH
2019年7月22日
※コメントは承認後に掲載されます。