Q & A 人は一番嫌なものを克服するために生まれてくる:ストーリーズ:MARTHのLast Resort

Q & A 人は一番嫌なものを克服するために生まれてくる

MARTH
公開日:2019-04-06 10:07

Q:質問です。

MARTHさんはよく、人は自分の苦手なものを克服するために、また、無我になるために、一体だと気づくために生まれるのだというようなことを、おっしゃっていました…。

それはどういうことでしょう。詳しく知りたいのですが。


MARTH:

本来の人の本質は、一体であり無我であります…。その、無我とは愛のことです…。無我とは無私のこと…。すべてとひとつであるということです…。本来そうであるのですが、この世界に生まれてきて、分離を習って、自我と化して、分かたれてゆきます…。

ですから、この地上でのそれぞれの私達のやらなければならないことがあるとしたら、本来の質である無我へと帰ることと言えるでしょう…。または一体や、ひとつなる神秘の中に帰ってゆくこと、または本来そこにいることにつくづく気づくこと…。無私であることに深く気づき、精通すること…それが大きなテーマではないでしょうか…。無私であり、無我であることが真実であるのですが、そのように気づけなくなっているのです…。

そして、この地上に生まれてくる目的はなんであるのか…。それを深く調べてゆくと、例えば一万人、百万人の人に、“なぜその家に生まれたのか”というワークショップを行う時、必ずその人が一番克服したい、ある意味一番嫌なもの、そういったものを選んで生まれてくるというようなデータがあります…。そのようなワークショップでは、世界中のあらゆる人々が自分の境遇、生まれてきた環境、一番自分が許したい、または自分の克服したい何かテーマを持っているということが、わかってきています。

ということは、私たちは、一体である無我に帰る、または気づくため、愛であることに気づくために一番克服すべき、そうしにくいところに生まれるということです…。

そして、非常に難しい場所を選び、自分がどうしても嫌だと想うところに生まれたりもするというのです…。

そしてそれを人生の大きなテーマとし、克服してゆく…。そのつらい環境、嫌な出来事、様々なものを愛で、一体感で、私などいないといった気づきによって超えてゆくということであるのです…。

あらゆる人が、そのような本質への目覚めを自然と行っているということで、それが生きる目的であるのではないか、それこそが大切な生きる上でのミッションであり、テクノロジーであるともいえることがわかってきています…。

人は、何のために生まれるのか、なぜその困難な環境を選んだのか、一番苦手なものを克服するためだといえないのか…。“こういうのが嫌いだ、ああいうのが嫌いだ”、それぞれ、皆さんが嫌いなもの、苦手なものがあります。それが自分の家にないでしょうか…。また自分の環境にです。

そしてそれを愛で超えてゆく、無我で超えてゆく、愛しさで超えてゆく、人の痛みや(本来一体物である)同胞の苦しさ、一体物の仲間の痛みを見て、それを許してゆく、一体から愛してゆく、認めてゆく、サポートしてゆく、癒してゆく、そのような在り方、それをしたくて、それを超えたくて、そこを許したくて、そこを選んで生まれてくる、そのようなことであるのかもしれません。人は逆境を愛で克服するために生まれたのだと…。



例えば、馬鹿にされるとか、けなされるとか、やっつけられるとか、襲われるとか、叱られるとか、ありとあらゆる人にとって嫌なことというものがあります。


ですから、それが嫌だからといって逃げたり、ごまかしたり、嘘をついたり、それが嫌だからといってやらなくなったり、避けたり、戦ったり、ケンカしたり、様々な分離を人は自我としてやってしまいますが、実は、その嫌なこと、その自分が避けたいと想っていることを愛で許し、一体への気づきや“私などいない”といった無私への気づきによって行動できるようになる。許せるようになる。それを超えて生きてゆける…。

そのようなことが、人生の醍醐味であり、目的ではないか。そんな見方もあるのです…。


許せぬものを許す…。自我にとってあまりにも苦しいことを許す、愛す…それが、人生の成長、本質への帰還の醍醐味であり、その苦しみやつらさや、そのような環境が、もしその人になかったとしたら成長できず、人は何を許したり、何を愛したり、何をしたら本来の質へ戻れるのかわからなくなってしまいます…。それが、無我になって超えてゆくという大きな醍醐味、または成長、チャレンジの真の目的であるのではないでしょうか…。

MARTH
2019年1月21日

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