Q & A 分離感とスポーツについて:ストーリーズ:MARTHのLast Resort

Q & A 分離感とスポーツについて

MARTH
公開日:2019-04-06 19:59

Q:MARTHさんにお尋ねします。私はスポーツが好きなのですが、特に格闘技とかが好きです。分離という問題から、それはあまり良くないような気がするのですが、10ラウンド戦って、最後に抱き合う選手がいます。様々なスポーツでもそうです。

ですから、競争や戦いはある意味良いことなのではないかと、MARTHさんのお話を聞いていて疑問に想うのです…。

そこについてお話しください。


MARTH:まず、はじめに分離感というものがあります…。自我が終焉していない場合、この世界は自我(分離)の抑圧や鎮圧に溢れています…。戦いを信じているわけですから怖かったり、とてもつらかったり、悔しかったり、頭にきていたり、怒りがみなぎっていたりしても、当然です。そして、それはとてもとても大きなエネルギーです…。そして、それが10ラウンド出し尽くして、空っぽになりました。ですから、その人は本質にひと時戻ったのです…。一瞬ではありましたが、全部出しきって怒りも憎しみも全部、エネルギーとして解放されました。スポーツでも同じです。そして、抱きしめる。それは自然なことです…。

それはロックのような音楽でも、一緒なのです…。また、様々なケンカも、戦いも同じです…。戦争のあとに平和を求めるのも、自我の分離感からの戦いのエネルギーが解放され、変換されて、空っぽになったからなのです。その怒りは疲れ果て、解放されたのです。

ですから、結局は分離の怒り、悲しみがあるときには、そのような争いや戦いのエネルギーの解放が必要となってしまいます…。また、戦争のゲームが流行っているのもそのためであるでしょう…。抑圧され、鎮圧されてしまった自我ゆえの戦いや憎しみ、悔しさ、分離感からくる様々なそのような想いが、エネルギーとなって
人にぶつけたい、他にぶつけたい、というようにもなってしまうのです。


ですから、自我による抑圧を解放するセラピーの世界では、人や他には決してぶつけません。実際には決して人にぶつけないように、マットや、誰も見ていないところで叫んだり、布団をかぶったり、そのように安全なところで、怒りや悔しさや、つらさを涙するわけです…。それを思い切り解放できたなら空っぽになることでしょう…。



しかし、それは一時的なものです。なぜなら、今の私たち人類には分離感がはじめにあります。自我の世界を信じている限り、分離感から来るエネルギーが製造され続けます。ですから、まず自我(妄想)の終焉、まずは分離感を終焉させる必要があり、まずは人は本質である愛に戻らないと人類はあらゆる戦いや戦争、競争、比較を、ケンカを怒りのエネルギーの解放のためにし続けることでしょう。また、そのような戦いのゲームが子どもたちの間まで、すべてに広がっていくことでしょう…。すべてそれは、怒りのエネルギーの解放のためなのです…。


ですから、企業は収益ということを考えたら、この分離の戦いの世界が続く限り、そのようなものを発売すれば、また、そのような怒りや憎しみを出せるようなものは、そのような人々が多いために人気も出、流行るわけです…。

それは人類にとって本当に良いこととはなりません。しかし、それを腹に溜めたままでいるよりかは遥かにマシだ、ということなのです。分離感を信じている人々が、ケンカを信じた、戦いを信じた人々が、そのままそれを出さないで我慢していたら、どんな爆発を起こすのでしょう。それこそ、核爆発に匹敵するような爆発になってしまうことでしょう…。


ですから、そのようなものを解放することはとても大切です。
ただし、人にぶつけない。人が見ていないところで、自分で処理することが望ましいのではないでしょうか…。しかし、大切なのは自我(分離感)の終わりであり、愛の世界の実現であることは明白です…。


また、体を使うとか、動くとか、運動に関しては、その分離感とは別のものです。草原を走ったり、また、食料を得るために木に登ったり、畑を耕したり…様々なことを人類はしてきました…。それは、競争とか比較などとは違い、家族を想い、国や友を想い、なされたと思われる分離感のない運動です。それは、みなが生きるため、生活を向上させるためのとても大切なものであったことでしょう…。

MARTH
2019年1月27日


追伸

真の平和や愛や幸せ、真に美しき社会や真に繁栄した社会、また成功が、精神世界や宗教性やニューエイジやヒーリングがあるにもかかわらず、ずっと人類に与えられないで来た真の理由は、現社会があまりにも分離感にあふれ、その争いの情報にあふれているからであるでしょう。本当は愛の子どもたちである、神の子である人々が分離感に染まってしまい、その戦いの中で、その質の悲しみを持って、癒しの世界へ入っていったからではなかったのではないでしょうか…。


その分離感の手法では相いれない本質という場に参入しようとしてきたからだけなのかもしれないとも感じるのです…。

私がたまたまそれに若き日 それに気づけたのは、ただ父母が、また先祖が分離社会とは極端に真逆の、愛をつくづく大切にする人たちだったからだけであり、私の素材の問題などまったく皆無であることをつくづくかんがみる時、やはり誰もが神の現れで、その本質の愛の情報が何より大切であり、真実の情報は分離の妄想を払拭して、この地上が美しさと愛で癒され、一体感にあふれてゆく力となるということを物語っているとも感じています。それこそが、何よりも大切であると感じてならないのです…。

MARTH
2019年1月28日

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