Q & A 勝ちながら愛することはできない…
Q:MARTHさんの昔の曲で、勝ちながら愛すことはできない…という歌がありました。勝ちながら愛そうとしても幸せになれないという意味がその当時はよくわかりませんでしたが、最近の様々なメッセージを拝見させて頂いて、つくづくその意味がわかりました。本質ではないからですね…。
だとすると、私たちニューエイジ、私たちセミナー人間は、もしかして道を誤ってはいないでしょうか。結局、勝ち負けや自我(分離感)の社会通念をニューエイジに持ち込んだり、宗教に持ち込んだりしているのではないかと、不安になってきます…。それについて、お話しください。
MARTH:
素晴らしいご指摘で、そのとおりだと思います…。私はそのことをずっと若い頃から伝えてきました…。勝ちながら愛するというのは、自我を持ったまま愛するということで、これは互いにまったく反対のことなのです…。私は瞑想に入るときにいつもつくづく感じたのですが、自我があると想って瞑想に入ると、そのような仲間たちがみな、自我を持ったまま幽体離脱をするのです…。そして、無我の一体性を持った仲間が瞑想すると真我へと帰ってゆくのです…。これは一体なんなのか…。そんなことを若き日つくづく感じたことがあるのです。
同じく、セミナーの仲間たちがニューエイジになってゆきます…。勝ち負けのまま、ケンカのまま、闘争のまま、エゴ社会に慣れた、分離感を伴った意識のまま、この分離世界の感覚や仕組みを信じたまま、ニューエイジや宗教に入ってゆくというのは、上達にとってやはり大変なハンデとなる、苦しみとなる、と私は気づきました。
なぜなら、一体でひとつである。要は差がない。みんなは差があっても、お互いに一体物としての、その上での差であり、いろんな特徴がある人たちがいて、それによって助け合って成り立つ、支え合う、というのが真の世界であり、それこそが宇宙の真理であるでしょう…。
しかしそこから、競争や比較という分離思考を持ち出すのは、そもそもが本質的、一体的ではありません…。その本質的なものの反対のもの(分離感)を持って、本質的なものと言われているヒーリングやニューエイジや、セラピスト、また、ヒーラー、そのようなものに入ってゆくには不向きでもあり、やはり自己拡大したいという恐れは本質の世界には向かない、と言わざるを得なかったのです…。
その世界にもし、分離感で入ってゆくとするならば、成長は難しく、苦しみ、つらいこととなってしまうかもしれません…。分離感がなく、自我が終焉している、もう勝つことはつくづくうんざりだと感じ、また、それゆえに一体性を取り戻そうと向かう人が好ましいこととなるでしょう…。もし、そこに分離感、競争、人に勝ちたいという想いで向かうなら、その世界は苦しみとなってしまうでしょう…。この自我社会でも苦しいけれども、そこではもっと難しくなるでしょう。
すべてがインチキなような気が自分でもしてしまうし、自分を罰することも強くなるかもしれません。それほど人は愛そのものであり、誠実です…。
私はそれをすごく心配しました。ですから仲間たちに、勝ち負けは違うよ、それは自我だよ、分離だよ、ということをずっと昔から、嫌がられながらも言ってきたのです…。
今、あなたがご指摘されたとおり、そちらに向かう一体性こそ、これが瞑想の世界であろうが、宗教性の世界であろうが、これが精神世界であろうが、ニューエイジであろうが、すべてが同じことなのです…。
本質へ向かう作業をする場合、人類を本質に導く方々が勝ち負けで、自分が偉くなりたい、すごくなりたい、自分を突起させたいと想っていたら、それはまったく悲劇です。
また、そのような参加者の方々は、またそのような理由で参加する方々は、それはまた悲劇であるのです。決して上達しないで苦しんでしまうことでしょう。戦うための知識や観念が増えてしまうだけなのです。なぜなら、そのような美しきもののすべては、一体性の中にこそあって、自我の観念が薄くなって、負けることを愛してゆく中にあるからなのです…。
ですから、その分離の妄想への気づきをまず最初に深めなければなりません。また、小さいときに許さなければいけないと決めて出てきた境遇や環境、または両親のことです。その反発をまず最初に抱きしめて、愛して、戦いの源を終わらせ、そこから現れてくる人生の役目、ミッションを抱きしめて生きてゆくことが、大切な助けとなることでしょう…。親からの、また、環境への観念、信念となってしまった戦いを終わらせることなく、そのニューエイジや宗教性やヒーリングの世界で生きるのは難しいことでしょう…。自我が悔しさや恐れからやむなく思い知らせてやるんだ!という戦いに持ち込んでしまったら、それはそれは大変苦しいつらい日々になってしまうことでしょう…。
あなたがおっしゃる通り、そのことを私たちは超えてゆかなくてはなりません…。ニューエイジやヒーリングや精神世界、また、宗教性ということを語るならば、それはすべて同じ一体性、負けて良い、ひとつであるというところに帰結します。残念なことにそれは知識や理論ではないのです。人それぞれに様々な特徴があっても、それは一体性の中の部分部分の特徴に過ぎないのです…。そのことに精通して初めて、そちらの世界がまた美しく花開くし、当然、自我の世界、この通常社会でも同じことが言えるのです…。
つくづく負けて良いと感じるほど分離感を超えなければ、真の成功や、真の持続可能な繁栄や、喜び、幸せは決してないのです…。逆に言えば、そのときだけ真のあなたが、真の本質が、真に神々が望んだ美しい世界が展開してゆくのです…。
「勝ちながら愛することはできない」というその歌は、本当にそうなのです…。勝つとは、分離です…。愛するとは一体であるということなのです…。それは相反するものなのです…。真にみなで共に勝つためには実態的に一体でなければなりません…。自我の妄想はもう終えようと向かっていなければ、自分がいないと気づき始めていなければならないでしょう…。みなが一体だ、ひとつだ、という深い気づきの中でしか、残念ながら本当の幸せはないのです…。愛とはそのことなのです…。ですから、勝ちながら愛することはどうしても不可能なのです…。
娘に、息子に、友に、兄に、姉に、妹に、弟に…また、先生に、仲間に、父に、母に、祖母に、祖父に、そして世の中にあえて愛しくて負けてあげたいと願うようなハートの時にこそ、誰にでも愛があふれ出してしまうのです…。
MARTH
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