Q & A 量子力学的視点と建国の想い
Q:私は、量子力学の研究者です…。MARTHさんのお話に大変興味を持っています。そして、大変、私たちの分野にも非常に精通されているのも伺えます。
そしてMARTHさんは特にその量子力学の中でも一体であるということを大切にされていることがひしひしと私には感じられるのです。
そのことについてのコメントをお願いしたいのですが。
MARTH:先生がおっしゃるとおり、私は量子力学の発見の中で一番大切なことは一体であることだと、そのように理解しています。
量子力学の発見を簡単にいうと、「この世でない」「現実でない」「一体である」「細かいところはどこまでも続き」「マクロに関してもどこまでもゆく…。」
そして、「素粒子は想念に影響される…」また、「すべてのものはつながっている」「心や考え、思考は素粒子である。」「フォトンといっても良い、プラズマ的なものこそが、また、電磁波的なものが目には見えないものこそが、この世界に大変な影響力を持っている…。」また、「すべては夢のようで、宇宙には果てがなく、ゆえに現実でないというところから、テレポーテーション、また、タイムトラベル、反重力、壁抜け、あらゆることが本当は可能である。」
そのようなことに今から100年前に気づいた、様々な量子力学の人々が世の中の観念の壁にぶち当たったと、そのように私はとらえています…。
しかし先生、それらの気づきはまったく、古代の人たちがとらえていた科学と同じなのです…。
私たちの国には、今世間で「ムー文明」と呼ばれている超古代文明があったとされています…。それは日本においても様々な文献や様々な古代書に記載されています…。それは秘密となっていますが、なぜ秘密にするのか…。私は、こう感じています。その超古代文明が愛の文明であったからだと…。その超古代文明の流れを汲むのが、もっと言えばその文明の石版の流れを汲むのがモーゼの石版だと私は感じています。
この古代ユダヤの人々は「ラストラ」という石版を大切にしました…。そこに書かれていることは、超古代の石版の霊感の書と同じことであったと、私は感じています…。
これは、ナーカル、シュメール、ユダヤと移行してつながったもの…。そして、ふるさと帰りをしてゆく民族。それこそが、イザイヤー・ナギィードの率いた、12支族であったのではないかと、感じているのです…。
彼らもその歴史の途中で、リーダーの気づきによっても人を支配したり、他国を攻めたり、隣人を苦しめたりしたことでしょう…。モーゼはそれを良しとしなかったでしょうし…。イエスも、イザヤも、良しとしませんでした。
そしてそのイザイヤー・ナギィードは、日本で一体(和する)であることをベースに建国しました。その建国の想いこそ、量子力学そのものであり、この世ではない、すべてはつながった一体のもの、ゆえに愛の世界である、それはとわに未知で神秘なところであるということを私は古い文献から突き止めました…。
しかしそれは、自我の世界を信じたある方々にとっては、とても危険なことでもあったでしょう…。思いやればそう感じ、古代から、なぜ秘密にされてきたのかも明白です…。その石版がなぜ隠されなければならなかったのか…。その理由こそ、一体である、すべては神の美しき愛の夢であるという価値観を守るためであったと、感じてならないのです…。もし、分離の世界を信じてしまった友たち、リアリティーでない分離の世界観を本気で信じた人々、もしそのような人々が、真実、真理が書いてあるものを見つけてしまえば、そんなもの不都合だと、破壊してしまうのではないか…。人のふるさとに攻めてゆきにくくなるし、奪いにくい、とりにくい、やっつけにくい、戦いにくい、という理由で破壊するのは当然ではないか、神の民、愛の現れに気づいた人々は、それを恐れたのかもしれません…。何よりも大切な宇宙の法則、真実、それは支配や隷属、争いのもとである分離の終焉、という分離の人々にとって危険に見える、そのような種を育んでいるものでもあったことでしょう…。それは、現代では量子力学と呼ばれているものそのものです。
一体である、この世でない…。とわに未知で神秘、強く想念に影響する世界、一体からそれた時、警告があることも…。そのような、精神世界やニューエイジがこの世の真実、現実、本当のことととらえてきたものです…。この世のすべては人類が名付けただけに過ぎず、すべては本当はとわにはかりしれないわからぬところであると、私は音楽や詩を通して伝えてきました…。量子力学にとっては、それは当たり前のことであるのです。そして、古代の人々にとっても当たり前であったとするなら、古代の科学は量子力学的なものであったとわかるし、逆に言えば、この世でないということを前提にした科学も技術も生み出されていたと、とらえられます…。
ですから、その一体であるという気づきは、分離を信じた方たちにとっては、本当はみなにとって素晴らしきことであっても、自分たちをおびやかすようなものに見えてしまったのかもしれません…。戦争ができない、やっつけることができない、うらんだり、嘘をついたり、騙したりできない。他国を責めたり、隣人を痛めつけたり…。もし、この世界が一体であるとなってしまったら、分離世界を信じる方々にとって不都合な事実であり、神の夢であるという最大の秘密も、ヴェーダですらわかっていることでもあるのです…。しかし、それは隠されます…。メディテーションの時、深く真我へ入ってゆくときに五感を外すのもそのためなのです…。
真我、この世界は神の夢、そして神の子たちのそれぞれの夢で成り立っている、という量子力学的な気づき。それぞれの想念によって出来ている、影響し合っているというその気づきは、権力者、または支配、または分離、戦い、闘争、エゴ、自我を信じてしまった悲しみの世界にとってはとても嫌なものであったことでしょう。彼らにとってはそれは不都合で、その真理は隠されるべきものであったことも、残念ではありますが、やむなきことでもあるでしょう…。しかし、その真理を1万年、2万年前にすでに気づいていた人々、そこから生きていた人々は、それを子孫に届けるためにやむなく隠し、守らなければなかったことも…。それは当然のことでもあったことでしょう…。
だとしたなら、たとえばITであっても1万年後の人々に保存し、届けることはできません…。それゆえに、石版であったのではないかと私は感じます…。
それゆえに、古代で何よりも大切だったものは、一体であることだと。すべてが一体である、愛への気づきであったと感じます。ひとつであることはとても素晴らしきこと、あらゆるものが、そうあるときには、動物たちへの愛しさや慈悲、草花や大地、海、空、宇宙すべて、他の人々、他の星の人々へも愛しさが募り、他と見える友、他の国の人々、そのすべてが一体物ゆえの愛しさや慈悲、愛を人類は取り戻してしまいます…。
それを良しとしない、また、できない人々…。神の子であるのだけれど分離の悲しみの中にまだいる同胞にとっては、その気づきはやっかいなものとして彼らに隠されたり、もしその石版が破壊されてしまったなら、と古代の人々は感じたことでしょう…。もし破壊されてしまったら、のちの世に、何万年もの月日の中、子孫たちにどうやって伝えるのだろう…言い伝えだけですむのか…。そんなところから、それは何より大切にされ、またそれを守るために命を落とした人たちも沢山いたのではないかと、今では感じています…。
私は、この国の創設、国産みの地である淡路島の神代というところに、何千年にも渡り、長く暮らしてきた一族の末裔です…。私は、他の人々こそ大切にしろ、人に勝とうとするな、良くなろうとか、偉くなろうとか、そのような自己の拡大を決してするな、自我を拡大するなということで叱られる、そのような父や祖父に育ちました。今では彼らのそのような想いがそこからきていたことを感じてなりません…。それは量子力学とも共通するのです…。
ですから、先生たちがこれから世の中にどんどん様々な量子的リアリティーの気づきを発信することで、仮にそのことが書かれているアークが見つからなくても、量子力学の気づきと共にあるアークの真の意味が、神の夢である、人々それぞれの夢であり、一体であり、この世でないと人々が愛に目覚めるなら、この気づきこそが、石版に大切にしたためられていたものが、この世界を貫く、愛の法だと私は感じてならないのです…。
それゆえに、それこそがイザイヤー・ナギィード氏にとって、なによりも大切な建国の想いであり、この国の人々は、愛の国を創るために存在した、また、愛の国を創るために、大変な想いをしてこの国に来た。東の地へ…。そのように理解します。
そして、私たちにとって、その気づきや目覚めはとても大切で、あらゆる人々が幸せに美しく暮らせる未来創りにとても重要になってくるものではないのかと、今感じてなりません。その最大に大切にしなければならぬものこそ、みなが一体である、すべてのものがひとつである、すべて神の夢であるという深き気づきであると、感じてならないのです…。
MARTH
2019年8月11日
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