「とわをうたう愛の詩」について
「とわをうたう愛の詩」について語るように言われました。
そうですね…。
この詩の伝えている想いのことですね…。
この歌のなかでは、大切なのはこの世だけですか、この世は本当にあるものですか、と尋ねています…。この世をこえて、愛しき人ととわに暮らせるという奇跡はありますかとも聞いています…。この世は夢に過ぎない、そんなことを言った古人がいました…。すべてがひとつ、一者でとわに続く、そんな愛の詩が可能ですか…とわに在りし詩のようにと…
それがこの詩の真髄であるでしょう…。
宇宙が消えて、世界も消える…。自らが、自我が死する時、ありとあらゆる信じてきたものが消えてゆくのです…。
さぁ、本当にあるものが消えたのでしょうか。それとも信じてきた嘘が消えるのでしょうか…。死とは、本当にあるものが消えることでしょうか。それとも、信じてきたものが消えることでしょうか…。そう、そのとおりです。信じてきたものが消え去るのです…。真実に出会ってしまうのです…。
本当は、私達はとてつもない奇跡の中にいて、とわなる旅をしているのかもしれません…
本当は自分が誰であったのか、この世界が何であったのか…。
この世界は現実でないかもしれないし、この世でないかもしれません…。
未知で神秘で、はかりしれず、わかりません…。
自我が死んでゆく時、本当の自分に出会うのかもしれません…。
そして本当の自分は、すべてとひとつなるとてつもない美しさかもしれないのです…。
本当の自分は古代から、古人が言うように真我であるかもしれないのです…。
真我が、真我の部分となり、そののち自我になった夢を見ている…そのようなことかもしれません…。
ですから、自我が死んだとしても、それは夢に過ぎないかもしれず、幻に過ぎないかもしれません。この世界自体が架空な奇跡の夢にすぎないのかもしれないのです…。
本当は、私たちは一体である真我であり、それを世界中では神と呼ぶかもしれませんが、その神秘の中で、未知の中で、すべてが一体で、それゆえ愛で、愛しき人たちと、愛しき一体物と、とわの旅を続けている…。そんな夢を見ているのかもしれないのです…。
私は、死ということをテーマに、ずっと子どもの頃から暮らしてきたような気がします…。今ではそのような気づきや目覚めを持って、そのことを受け入れることができます…。ある意味、楽しみな部分まであります…。
さぁ、古人の言うように、自我を失ったら、すべては夢に過ぎなかった、妄想に過ぎなかった、自分は自我ではなくてまったく知らないような、とてつもない世界へ移行し、言葉を越えた何者か(真我)だったということもありえるというような気がします…。
それは深き自我を離れる瞑想の中では、とてつもない真我に参入するからです。
そのような経験を何度もしました…。
そして人類は、この世界にいたまま、そのような真実の中に、未知の中に、神秘の中の、本当の自らに出会う日が間もなく来るかもしれません…。
小さな頃、3歳ぐらいでしょうか。自我というものが形成され、初めて死の恐怖ということを感じられるようになりました…。自我とは、死への恐怖そのものです。部分の死への恐怖です。
自我は3歳ぐらいまでに形成され、それまではなかったのです…。それまでは一体でした、一者でした…。そして、自我が生まれると、自我の死という問題に人類はつきあたります…。
ですから、自我という妄想は、ある意味人類の哀しみなのです。死への恐怖そのものだからなのです。自我を失う時、妄想を失う時、一体の中に帰る時、人類は死をも越えるのです…。
ですからMARTHは、分離を本気にし、自我を本気にするのは大敵だと言います…。分離、敵対、勝ち負け、猜疑心…様々な分離感は、死への恐怖をますます大きくし、人々の恐怖をますます強くし、人は弱くなり、その恐れのために奴隷化し、また支配化し、人間はますます苦しみ、つらくなり、だめになってしまうのです…。
ですから、自我は大敵です…。
私などいない、私など生まれていない、この世ではない、生きてもいないし、ゆえに死することもない、永遠にひとつの中に在るだけである…。
と感じるのです…。
MARTH
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