あるスタッフの回想
私は和尚の古いサンニャシンです。インドの瞑想コミューンでは、世界中から人々が集い、瞑想し、歌い、踊り、自由を謳歌していました。やがて、私は昔「自分を観る」自己啓発セミナーをきっかけにOSHOやクリシュナムルティを愛するMARTHに出会いました。セミナー自体もそうでしたが、彼との出会いはまったくもって衝撃的な体験でした。今まで私が知っていた人たちとは、何かまるでちがう質の人であったからです…。なぜなんだろう…?どこがちがうんだろう…?何かがまったく私とはちがう。ワンネスを口にし、利他愛をよしとするニューエイジの仲間たちとは、決定的に何かがちがう…。そのような価値観ではいられないほどのなにか、その違いが理解できないままでした。当然MARTHもすべてがひとつ、一体の世界だとよく口にし、うたっていたにもかかわらず…。
当時、彼はこのように言っていました…。
人にやさしくとか愛とか、思いやりとか、そんなことはまったく考えていないのです…。ただ、たとえ自分が殺されても、傷つけられても自らの愛を失いたくないのです。戦わないのも、万物の創造の子として自らが汚(けが)れたくないし、いい加減に目覚めろという万物ゆえのメッセージでバチが当たるのがイヤであるからだというのです…。たとえ殺されようと、どうせ死ぬのなら、自分をおとしめてまで人を責めたくないだけであると…。他と見える本当は自らである他の人々の悪口を言ったり、攻撃してくる他と見える相手に対しても、万物の一部であり、創造の(神と呼んでもいい)その子が、その一族が、末代までだめになってしまうから、やりかえしたり自己拡大をしてはならないと育てられることはとても大切ですというのです。
それはMARTHが著書の中にもある「傷つけられても傷つけない」ことでもあるのでしょう。そして、それは愛があるいい人であるというよりは、自らのために人を傷つけない、なぜなら、人ではない、他ではない…一体物であるからだというのです…。私は、そこが彼の圧倒的な美しさでもあり強さなのだと感じてなりませんでした。
MARTHが、やさしいもの好きの人々は幼少時に苦しみがあり、とても傷ついていて、人に優しくなれ、仲良くしろ、いい人になれ、人を愛せと言ってはいても、本当はすごく怒っているのだと言ったとき、私自身、本当にそうだと思いました。彼の価値観とはまったく逆の分離の戦い、競争の価値観で育てられた私は、子供のときから、不機嫌で怒っていたのは事実です。その反発から、ニューエイジになってしまったのかもしれません。それはやさしい世界を作れといった運動ではないかとまで今では思うのです…。自分でも愕然とする思いがします。
もしかしたら人は、得が変わらないと、変われないのではないかとMARTHは言っていたときがあります。みんな万物、いや神の子だから、創造の一部であるのだから、本来は絶対的愛をもち、そのような人々の世界も絶対的平和な世界であることでしょう…。しかし、人々は一体ではなく分離を習い、エゴを信じ、他から奪う、他から抜きん出るそんな比較的価値観が得だと思っているのでしょう。ゆえに万物の一部が苦しんでいるのではないか、ましてやそう生きてしまえば、とんでもないメッセージである罰が当たることになるのだからというのです…。
もしかしたらそのような彼の家では、万物の掟、創造の法則が絶対的に臨在していて、テイカーであるととんでもないことになってしまう。人のためではなく、分離を信じて自の愛を大切にしないと万物からの強いメッセージが来てだめになってしまうから、そうしてはならぬと育てられたのではないかと感じます。自分が万物、いや神の子としての魂、愛を失ってしまうのはあらゆる人にとって最大の災難であると彼は言うのです…。
もしかしたら、そんな子育てや教育は、花咲かじいさんのような真に善良な人を生むのではないかと、強く感じたりもしたのでした…。
幼いとき、私の家はキリスト教の家でした。もしかしたら、キリストが十字架に磔になって死ぬときも、わたしの生命は奪えるが、神の子としての真のプライド、魂は決して奪えない…と言ったのも、MARTHが大切にする古代ヘブライ人の価値観であるところの万物から受け継いだ自らの愛をけして捨てないとする生き方と同じ気づきから来るのかもしれないとまで想像してしまいます…。
万物(神)の法則とは真逆の分離感の価値観を誰もが信じる世界…。それは、世界中の戦争や争いに明け暮れる日々であっても、ワンネスを謳う一見美しいニューエイジであっても、同じことではないのか。私はそのことを深く探求しています。自らが、すべてのものが万物、いや神の一部であるゆえにそのプライドを誰もが捨てない世界こそ、愛と平和な未来が見えると感じているからなのです…。分離やエゴの世界には永遠に真の平和や幸福、繁栄は訪れないのかもしれない…。
MARTHの話を聞いていて、そんなふうに思いました。そして、誰もが本当は、神の子として降りてきた使命をまっとうすることがこの世界に生まれた喜びだとしたら、その神聖なる価値観を取り戻し、本来の人としてまっとうに生きることが、これからの新しい人類にとって、絶対的に必要なことではないかとも感じてならないのです。
M. D. N
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