この世界が実際に想念で出来ているという科学的、素粒子的事実
Q:MARTHさんにお尋ねします…。宗教とか政治、この世界のありようについてMARTHさんはどのようにお考えですか…?
MARTH:個人的に言えば、あまりそういったことに興味はないのです…。
ならなぜ、ニューエイジや精神世界に対して非常に精通しているのかと聞かれるのかもしれません…。私は、父親が非常にうたがい深い、検察という仕事でした。そのような環境で生きてきてしまいました…。また科学者の方々も同じだと想うのですが、検証可能、また実際に科学的であるということがとても大切なのです…。ですから、残念ながら、ただ信じろと言われても、その能力があまりないのです…。
私が伝えているのは、この世界が実際に想念で出来ているという科学的、素粒子的事実であるのです。また、この世界は想念の影響を非常に受けるという量子力学が解明し始めている科学的事実が古代からもあった、というようにとらえているだけなのです…。
そしてそれに気づいている古代の人々の知恵は、宗教と呼ばれたり、また精神世界と呼ばれているかもしれませんが、そのことが大切なのではないのです…。そうではなく、それらの知恵が事実かどうかが、大切なのです…。
この世界がもし想念によって出来ている…要は、創造力によって出来ているとするなら、その主体は一体誰なのか…。それは創造の主と呼ばれてもおかしくないと感じているのです…。
そしてその創造の主を人々が神と呼んだり、主と呼んだり、創造のその神を、創造の主体を創造主と呼ぶのは、決して間違いではないと…感じているのです…。
そしてその、創造の主体があって、その中に存在し、生きている動物と呼ぶもの、草花と呼ぶもの、大地、星々と呼ぶもの、また人間と呼ぶものすべては、その素粒子の海の中にあり、それそのもので出来ているのです。分子と呼ばれるすべては素粒子で出来ているという科学的事実においてならば、そのあらゆる部分は、創造の主体の部分であるというようにとらえてよいのではないでしょうか。
そして創造の部分であるそれらのものは、創造の法則にしばられているといえ、ある意味規則正しく、法則に守られているともいえるでしょう…そしてそれを、人類は人類側から見ると「バチ」というようにとらえ、また見える、といえるのかもしれません…。
ですから、MARTHが言わんとしていることは、この世界が創造によって、要は想念によって影響され創られている世界であるという古代からの科学的事実がベースとなり、その様々な動物たちや大地や細菌さんたちや、そう呼んでいる本来未知のもの、また人間と呼ぶもの、その生命と呼んでいるもののすべてが創造の一部であり、創造の法則にのっとっている…。
そして、ここでとても大切なのは、すべてが一体物であり、同じ素粒子(もの)で出来ている、つながっているという事実です…。
ですから、分離した価値観を持って生きるとき、その間違いから目覚めるようなメッセージが来るともいえ…。どんな方も、一体の素粒子によって創られているという事実が、そこから見えてくることでしょう…。またどんな物質も、どんな分子も、その同じ素粒子で出来ているのです…。
そして分子はとなるとそれは腐食酸化します…。腐食酸化とは、原子に戻ってゆくことにすぎないのです…。しかし、その原子や素粒子は腐食酸化しません…。
ただし、原子の周りを回っている電子は、劣化したり、軌道を逸脱したりします…。それを、人類は今波動と呼んだり、波と呼び始めている段階です…。
どちらにしても、この創造の主が見る夢のような世界…創造の主の想いがこの世界を創っているのだとするなら、この特徴はなんなのでしょう。それは、一体であること、そして同じもので出来ているという事実、そして、原子レベルでは、またフォトンレベルでは、素粒子レベルでは腐食酸化しないということであるでしょう…。ということなら、それらは永遠であるともいえ、それはとても科学的なことなのです…。
想念、また音楽、様々なものは電子で出来ています…。ですから、腐食酸化するものではありません…。分子ではないものなのです…。分子が崩れて死ぬと見えるからといって、また私たちはそれを死と呼ぶからといって、その元である原子・素粒子に死はないのです…。
そしてそれが宇宙に満ちている素粒子のありようです…。それらをアカシックレコードだとニューエイジの方々が呼んでいるなら…それはそうだなと、ただそう想うだけです…。
科学的には間違っていない…。それは量子力学を学べばわかることである…とも感じます…。何かを信じたとか信仰しているとか団体に入ったということは、私の場合は残念ながらないのです…ですから守ってくれる人もいません…。それどころか攻撃の対象となることもあるでしょう…。
しかし、私はそのような固い家の子どもで、事実以外を受け入れることができないのです…。
そうじゃないか、というときはそうじゃないか、というべきであるでしょう。そのように育てられてしまったのです。
それが私の枠組みかもしれませんが、事実、人間の本質は一体の愛であり、そしてその創造に合ったときに、人々は真に豊かになり、真に繁栄し、真に幸せになる…。というように、想うのです…。
私は、若き日に「自分を観るセミナー」というもののトレーナーを長くやってきました…。ただただ自分が今なぜそう想うのか、そう考えるのか、自らの主体を観てゆく時、大きな気づきが生まれます…。
客体を観るのではなく、自ら自身、要は主体を観る…ということに精通してきました。そして現場でつくづく気づくことは、人から自我の野心や念望が消えたときには、人間はみな至福であり、愛であり、安らぎだということなのです…。もし安らぎが欲しいのなら、妄想である自我の念望や期待や希望が消え去ってしまえば、誰にでも瞬時に安らぎが生まれるものだということを体験により深く気づいています…。
これは科学的、いや体験的に何度も何度も経験してきた事実であるのです…。ですから、それを伝えようとしています…。
人々は、ただ妄想である自我の野心さえ失えば、自我の念望、期待を捨て、要は万物全体、創造の主体に戻れば、真我、真の我に帰ってしまえば、部分ではなくなってしまえば、すぐに安らぎや幸せがそこにあるのだということに気づくことは、人生最大の美しきギフトだと想います…。
そうしたときに、宗教の方や賢者の方や聖人的な方や、古代の方々が言っていることがまんざら間違いではない、無我とか、この世でないとか、現実でないとか、すべて量子力学的にも正しいことだと感じます…。この世界を科学ではない方々が、その真実を古代から言い当てていることには、尊敬に値すると感じるのです…。
ですから私はイエスや、釈迦や、クリシュナムルティ、和尚 バグワン・シュリ・ラジニーシ、バーノン・ハワード、ラマナ・マハルシ、沢山の方々が大好きです。
なぜなら彼らは、その真実に迫りくる人生を生きた人々だからです…。科学者でないのに、真実に迫りくる…大変な覚醒力、気づき力だと尊敬しています…。ただそれだけのことにすぎません…。
MARTH
Q:では、MARTHさんは、傷つけられても傷つけない、攻撃されても攻撃しない、といったことを伝えられておられるのも、今おっしゃられたことに関係するのでしょうか…。
MARTH:当然関係します…。分離の価値観というのは、一体である素粒子にとってはとっても嫌なものであるらしく、すぐに自らにメッセージをしてきます…。なぜならどなたでも、誰でもが同じ一体の素粒子で出来ています…。それはひとつであるゆえに、愛で出来ているとも言え、私はそう呼んでいるのです…。愛で出来ているものが、分離というところから行為をするときには即座に間違っているよとメッセージが来ます…。そして誰から?といえばそれはハイヤーセルフ、本体、本質からであるのです…。
そして分子の本質が素粒子ではないと断言できる人はいるでしょうか…。あらゆる人が、分子で出来ています…。ということは、本当はその人は素粒子で出来ているということであるのです…。その人の考えもです…。だとしたら、そこに分離があるときに、電子は乱れてしまいます…。分子レベルの中にもきれいな円を描き続けるという物質はあります。
それは、私の知人の科学者はそれをπ(パイ)と呼びましたが、円のことです。きれいな軌道を描くという電子の科学的事実は、一体の価値観のとき、愛があるとき、ひとつであるという感覚があるとき、また無我の感覚、自我の終焉の感覚、ノーマインドの感覚のときにも美しく存在します…。
ですから、イエス・キリストと呼ばれた人も、あらゆる自我の悲しみを許すのは、自らの幸せや至福を守るためでもあり、自分が傷つけられることを許したり、嘘をつかれたり、バカにされたり、様々なことになっても許すのは、苦しみを大きな安らぎに変えたかっただけなのではないかと、そう感じてなりません…。
なぜなら、安らぎというのは、人間本来、また万物本来の質であり、そこに分離の価値観が入り込んでしまうと、あらゆる苦しみや問題が発生してしまう…。誰もが真に持っている本質の愛を失ってしまうことを理解していたなら、そんなことをあえて自ら創りたいとは、誰も思わないのではないでしょうか…。
MARTH
2019年10月7日
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