分離からくる 人類の悲しみを終えるには
Q:MARTHさんにお尋ねします…。
私は地位や名誉やお金、分離感の強い悪い人たちがそのようなものをひけらかしたり、力を行使することが嫌いです…。
MARTHさんは、愛のある、一体性のある人々こそが豊かであることは良いことだとお話しされます。そこのところを掘り下げていただきたいのですが…。
MARTH:一体ゆえの宇宙の法則の中では、愛(一体性)がなければ真の成功は難しく、持続可能な繁栄や、真の豊かさもそこにはないといえ、ましてや愛(神)の子どもたちが、それなしで生きるならば、破滅してしまうのかもしれません。しかし、地位や名誉やお金、そのような権力を持ち、かつ分離の人々だけが悪いのかとも言えず、そのような人たちに頭を下げ、ちやほやし、媚びてしまうこと、称賛し、もらおうとし、また、ファンになり、おべっかを使い、騙したり、うまく利用したり、自我を守ろうとする、そのために彼らを良いものと評価する人類の性の方の問題もきっとあるでしょう……。
結局その人たちが、そのようなものを必死に手に入れたいと願うのも、分離の社会の中、苦しかった日々、つらい人生や育ちや価値観、観念、そのようなとき、悲しみの中から人気や地位、権力を持つことで、見返したいとか、認められたり、尊敬されたいと信じるのは、やむなき流れかもしれません…。
そのような悲しみは、結局のところ、自我の悲しき野心を生み、
どちらの側も悲しみです…。
愛や一体性でなく、誤った権力や地位や、名誉やお金に人類が屈服したり、言うことを聞いたり、おびえたり、利用しようとしたり、彼らをチヤホヤすることで、共にみなが分離(自我)の拡大を則しているのかもしれません。
それは、人類の大きな損失であり、本当はそれこそがどちらの側の人々にとっても損失であり、問題であると感じてなりません…。
真に豊かな人生というのは、この神の世界、また愛の世界、この一体のひとつなる万物自然の中では、共に一体感を持って生きなければ本当の幸せはないでしょう…。そしてまた、自分だけが一体に気づいていてもきっとダメなのでしょう…。逆に、世界中のすべての人々がひとつである気づきを持って生きたら、どんなに素晴らしく繁栄し、助け合い、支え合い、力を尽くし合うなら、人々はとわに持続的に真に豊かになることでしょう…。
それは人類だけでなく、あらゆる生命や、あらゆる鉱物と呼ばれてきたものたちも、あらゆるすべてを尊び愛しむような、素晴らしく美しき世界が生まれ、真に人類は幸せになることでしょう…。
本来美しき素粒子の海、一体なる世界の中で分離を信じ生きるなら、その分離感が妄想であっても、自分だけが助かれば、自分(部分)だけが良くなれば、自分(部分)だけが、自分だけが、という分離した自我(部分)を拡大してしまい、自我の力を持とうと、仮に不正の人々であっても、媚びたり、騙したり、うまいことを言ったり、おべっかを使ったりする自分も、本当のその人の愛に合わぬために、とてもつらく恥ずかしく感じ、罰してしまうことになるでしょう。
誰であっても神の子であるのに愛で生きず、腐敗してしまったなら、悲しみは絶頂となることでしょう…。
よく見えたり、見せているが、本当はつらく、とても苦しい人々に、表面だけ従い、そのようなお金持ち、権力者の人たちからもらおうとする、そのために頭を下げる、一体性の気づきの(愛)ない力や権力のある人に、その人たちが不正であろうが、一体性がなかろうが、愛がなかろうが、自我の野心から私たちはその人たちのある意味、手下となり、隷属するとしたら、悲しきことですがそちらの悲しみの方がよっぽど問題なのではないかとまで感じてしまいます…。そして、その双方ともに本当の幸せにはなれないとしたら、何より悲劇であり、悲しきことであるでしょう…。
この世界を本当に良きところへ戻したいと、真に人類が願うのなら、素粒子の海が喜ぶような、皆で共に愛へと、一体性への気づきを則し、私たちは本質へ、ひとつへの気づきへ帰らなければならない気がしてなりません…。そのような人々こそ真に幸せとなり、真にとわに守られ、美しき繁栄を持つことができるのだと、つくづく感じるのです…。
MARTH
2020年1月27日
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