古来から伝えられてきた、和する、一体である、ひとつであるということについて
Q:MARTHさんにお尋ねします。
MARTHさんは、イザヤさんのような建国の父のこと、ヤマトのこと、また、超古代の文明、この国に遠く昔に存在したムーと名づけられた文明のことなどを様々なところでお話されています…。そのことにとても興味があります。
ぜひ、詳しくお聞かせいただけませんでしょうか。
MARTH:何よりも大切なことは、彼らがつねに伝えていた一体である、ひとつであるということなのです…。この世界のすべてが未知で、まるで一者の夢、神の夢、創造主の夢であるかのように、すべてがつながっていて、一体で愛でできている。この世界のすべてが愛(一体)の神の現れであるといった、そのようなことこそが何よりも人々にとって大切な気づきであり、人生の支えであると伝えています。
もしそれを失ってしまうと、きっと誰もが大変な苦しみの中に入っていってしまうと感じてなりません…。もし自我(ぶんり)の価値観を強く信じていたなら、仮に瞑想をしようが、ニューエイジになろうが、精神世界や宗教性や、スピリチュアルといってもその一体感がなければ、美しく真我に帰るという素晴らしい体験が起きないことでしょう。
その一体性が何より大切なもので、そのときにだけにこそ、美しき愛(一体)ゆえの至福があり、本来の万物の本質である真我に帰るという素晴らしき体験があり、自我が終焉し、自我の妄想がないときにこそ、真に一体に戻ったときにこそ、その美しき至福の意識に戻ったときにこそ、人は深く深く幸せになれると感じてなりません…。
逆に、一体性への気づきのない人生、それゆえの愛(一体性)の至福のない人生、そのような中では、人生はとてもつらい戦いや争いの日々にさいなまれ、人類はますます苦しんでしまうこととなるでしょう。
しかし、その本来の、この国に大昔から、また超古代からあったとされる美しく大きく和(ひとつである)するということ、一体であるということは、とても大切なことです。
そしてそれらの価値観は世界中に広がり、古代にはその価値観が世界中にもあったとも思われます。
それは、すべてが未知で神秘で一体であるという気づきで、これからの科学、素粒子の世界では当然なことであるのですが、今まで私たち人類は分子の世界だけを見て生きてきたために、要は、見える世界こそが人類を迷わせてしまう最大のものでした。
私たちが目で見えるものは、聴こえるものも、感じる香りや味、そのようなものを含めて、自我というものが実際に存在するという感覚を深めるものにつながってしまっています。
目で見えるものは、分子の世界しか見えないのです。もし原子が見える目がついていたなら、この世界の真実である一体の世界にいち早く人は気づけたことでしょう。
あらゆるものがバラバラに見えるとしたら…。ですから、大切なことは、すべてが一体であるということにいち早く深く気づくということとなるのです。
そしてすべてが一体であり、未知であり、神秘であり、とわにとてつもない中に今いるということに、すべてがひとつなる神の、いや、愛の現れであることに深く気づいた時、そして、私というものは観念にすぎず、自我というのは本当は想念にすぎないのだ、そしてすべては一体で、神の夢のようなものだというように科学的にとらえられるようにもしなると、人は無我的意識に生きることとなり、そのときは自我によっての良いことや、自我にとっての悪いこと(妄想)ということから自由になり、そのことにさいなまれることがなくなります。
そのときには、そこに真の至福が生まれ、真の永遠性もそこにあることでしょう…。その真の至福によって、私たちはあらゆる幸せをきっと可能にもすることでしょう。
その真我に帰るという至福、その喜びの中で人類は素晴らしき世界をきっと生み出すことができます。
それが、この国に古来にあった“和する”ということなのです。
ですからこの国は、イザヤ氏が日本に来られたときに、大和(ヤマト)とつけ、ヤマトゥ、これはヘブル語で神(一体・ひとつ・愛)の選民という意味です。要は神(愛)が望むような世界を創るという意味でした。
それは古代のこの国に元からあったムーやレムリアと呼ぶ時代からの宝、和することを、一体であることを大切にしてきた民であったということでしょう…。そして、その地に帰ってきたイザヤ氏は、きっとヤマトゥとヘブライ語でつけたのかもしれません。
そのヘブライ語は、もしかしたらフェニキアの言葉でもあり、それはもしかしたら古代のヤマトに、この国のムーにつながってゆくかもしれません。
どちらにしてもこの国は、大きい和、和すること、すべてが一体であるということをとても大切にする、そのことが何よりも大事に尊ばれる国であったと言えるのかもしれないのです…。
逆に言えば、そのようなすべてのものが一体であるという科学的な原子的愛の本質、すべてがそうである以上は、あらゆるものを、またあらゆる部分的なものを崇拝するとか、何か1個を特別視するということではないのです。
万物の現れすべてが神の現れであり、愛の現れであり、すべてが尊いというようにとらえるのが、超古代からの、この国の気づきです。
あらゆるものが万物の現れ、愛の現れであるということが、何よりも大切であるというようにとらえるのが、この大和の国、ヤマトゥの国の特徴です。
イザヤ氏は、いとこから預かった、何よりも大切なものを守るために、自らのルーツを含め、それをやむなく隠し続けなければならないことがあり、そのために歴史の途中から様々なことになったことはきっとあったでしょう。
しかし、本来はそのヤマトゥの、大きく和する、和(愛)の想い、また、大和の国の名も含め、それらを取り戻したいと願う民もおられるのかもしれません…。
全人類が、また万物すべてが一体である。また、動物たちや、鳥や花や、あらゆるものが、森羅万象すべてが、大地や空やあらゆるすべてが一体のものである、という気づきはとても美しく、人類の未来を照らします。その気づきを取り戻すことはとても大切なことと感じ、分離、または隔たりを気づきによって、愛によって終えてゆくことこそ、今何より大切なことと想えてならないのです…。
MARTH
2020年5月13日
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