恐れから生まれてくる念望や期待の問題について
Q:MARTHさんは一体についてのお話しを沢山されています。
一体であるということは五感や言語を超えてすべてがとけあって一体になってしまうということなのでしょうか。
MARTH:いいえ、それは大きな間違いです。万物は五感を作り、言葉も創りました。それは自然なことです。重要なのは、それが原因となって大切な大切な至福である愛や安らぎや、素晴らしい万物が与えた、そのような至福の状態が失われてしまうということが問題であると伝えたのです…。そこから人類のすべての争いが生まれているのだと感じます…。要は、問題があるとしたなら、自我の高揚ではない、自然な至福や幸せが、私たち人類に無くなってしまったことではないかということなのです…。
逆の言い方をすれば、一体性の価値観のなさから生まれでた恐れによって、念望や期待も生まれ、一体性への気づきがないゆえに、心理的時間が生まれ、今ここに在ることができず、自我が毎日恐れからの期待をもって生きることとなってしまっている、言ってみれば、私がいるからこそ恐れた、しかし、自我そのものよりも、その恐れから生まれてくる念望や期待が、平和や安らぎ、至福にとって非常に問題なのです。
そこから念望や期待を持たなければ、ただ毎日、自我(自分)の安定や安全への強き期待や念望を持たないで生きることがもし可能ならば、それは古代からずっと言われてきた悟りとか覚醒という時にある至福は失われないのです。
なぜなら、大変な安らぎと大変な安定、大変な喜びや、自我の念望が叶った高揚ではない、自我の念望が叶ったり、期待や野心が叶ったときの自我の高揚した状態ではない、ある意味、自我が終焉した、真に安定し、安らいだ至福、自我が念望を持たないときの至福、自我が“ああなってほしい、こうなってほしい、こうやらないと、ああやらないと”という幼少時からの苦しみ、自我の恐怖から生まれ出る念望や期待が、終息している状態。そのときには、万物が本来持っている神の子、愛の子、何と呼んでも良いのですが、本来持っている至福が、そこに存在するのです…。
そのとき人類は、敵対や攻撃や戦争や、戦い、ケンカ、ありとあらゆるものから自由となり、恐れが終息し、真に自我の問題から解放されて、真の幸せをつかむことでしょう…。
ですから、自我があっても何の問題もないのです。自我を創ったのは天であり、万物です。しかし、自我からのまさか恐れによって、人類が自我の期待や念望を持って、それによって愛や本質の気持ち、安らぎや、本来あるべき素晴らしき幸せや、至福がなくなってしまうという、そこの計算が宇宙にあったかどうかの問題です…。
逆に言えば、宇宙がそれを、その苦しみが起きるということで、念望や期待を持たないで、また愛へと帰り、争いが終息する、安らぎへと、至福へと帰してゆくというために、そのような仕組みが生まれたのではないかとまで、私は感じてしまいます…。
MARTH
2020年2月1日
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