Last Songについて
Last Songは、今から何十年も前にハリウッドでレコーディングされた楽曲です。
それは、映画音楽専門のデヴィッド・キャンベル氏がアレンジを行いました。
当然、イントロ、間奏は、すべて私が書いたものです…。
そのアレンジに金管楽器やコーラスを加えるリアレンジを、今回アダム・クレメンス氏にお願いしました。
アダムは、MARTHは何を自分に求めるのだと…なぜ自分なのだと聞いてきました。
私は、ここ何度もプラハでのレコーディングやDVDの撮影を共にする中で、アダムを深く信頼し、愛しく想っている…それしか思い浮かばなかったのです…。ですから、うまく答えられませんでした。
そしてそれから、数ヶ月が経ち、アレンジがあがってきました。
そのMIDIを聴いた途端、私の脳裏に力強きイメージが花咲き、展開してきたのです…。
彼の創り上げたアレンジを聴いたときに、私は白昼夢を見るような、そのような衝撃的な感覚を得たのです…。
以下にその想いをしるします…。
アダムへ
あなたの完成したアレンジを聴き、今回なぜ再びプラハへゆくのかがわかりました。
ヨーロッパのみなさんのリーダーは、美しき傷ついた裸の、ロバに乗った美しき人でした…。
聖書も知らない遠い東の地から、美しきあなた方のリーダーをたたえるために、きっと私はゆくのです…。あなたの音楽を聴いて、そう感じました…。
つばをかけられ、石を投げられ、傷つき、むち打たれ、嘘をつかれ、ボロボロになった者…そしてなお、許している愛の人に詩を捧ぐために…
子どもたちはその人のことを、真の王と呼び、
真の愛を取り戻そうとしている世界中の民が、彼を愛し、愛を想い出そうとしています…。
あなた方の美しきリーダーは、むち打たれ、つばを吐かれ、それでもなお、すべてを許している人でした…。あなた方はどれほど美しき人を愛してきたのか知っているのでしょうか…。
聖書も知らぬ、東の地より来た者にそんなことがわかるのでしょうか…。
アダムのアレンジを初めて聴いたとき、こみあげてきたもの…それは、この音楽を一言で言うと、”真の皇帝のような音楽”だと感じたのです。しかしその王は、裸でロバに乗って傷つき、石を投げられ、むち打たれ、つばを吐きかけられ、嘘をつかれ、無実の罪で、とがなき罪において、殺された人であるのです…。そして、それでもなお、まだすべてを許し続け、愛へと旅立った人でした…。
その生き方を切に愛する私たちは、そのように生きたいと、切に日々願うのです…。
それゆえに聖書も知らぬ、東の地より、美しきあなた方の真のリーダーに愛を捧げるために…。神聖さをこよなく愛する地、このドヴォルザークの地へとやってきたのかもしれません…。
真のしあわせは自分の中にあり、地位や名誉だ、お金だ、のような状況ではなく、内側にあるということを、この音楽は醸し出しています…。
私たちは、ロバに乗った、傷ついた、ボロボロの真の王の民でありたいと願います…。でも忘れてならないのが、和する国ほど豊かな国となり、愛ある人ほど、しあわせに生きれるということを…。
私たちは、ロバを愛する…ゆえに安らぎを得、愛を得ます…。
それゆえに、真の繁栄や喜びに満ちた人生を送り、真に持続可能な豊かさを持つでしょう…。
それこそ、ハートの中に真の王を愛する民であるからです…。そのような想いを世界に届けるために、今回のプロジェクトは生まれたのかもしれません…。アダムのアレンジで、そのことに気づかされたのです…。
本当は、それこそが世界の人々、またヨーロッパの人々の真に愛するものだと感じてなりません。
みなさまが真に愛したものは、あのロバに乗った、ボロボロになっても愛を生きた、あなたたちの真の王なのではないのかと…今では、そのように感じてならない私は、隣国より、心より、愛を贈ります…。
真に豊かなる者は、愛ある人のみであり…
美しき真の王国に入る人には、一体の愛が必要でしょう…。
ロバに乗り、裸でむち打たれ、傷つけられ、嘘をつかれ、石を投げられ、つばをかけられ、家族を殺され、仲間を殺され、それでもなお許している、愛している、あなたがたの美しきリーダーを称えるために、私はプラハにゆこうと今は感じています…。
つばをかけられ、嘘をつかれ、あらゆるものを奪われ、あなた方のリーダーは、それでもなお愛を称える人でした…。
それでもなお彼は、すべてを許している…愛している…と伝えたことでしょう…。
ゴルゴタの丘で、あなた方のリーダーはあらゆるかなしみ、そしり、裏切り、嘘いつわり、暴力、そのすべてを許していました…そしてすべてを愛していると伝えたのでしょう…。
そのとき、あらゆる自我の野心は消え、それゆえに心理的時は止まり、安らぎの中へ消え、愛しさへかえっていったことでしょう…。それは人類の最高の叡智(えいち)であり、真の幸せへの法則でもあるでしょう…。
どんな苦しみや逆境も自我をこえて許している、愛しているという言葉によって、私たちは、私達の本当の質である一体ゆえの真の安らぎや平和を得るのです…。
MARTH
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このされこうべの場所(ゴルゴタの丘)については、そこにはアダムの遺体が葬られているとヘブライ人たちが言い伝えていることを私は聞いた。これは、アダムによってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストによってアダムがよみがえりすべての人が生かされる(1コリント15:22)ためである。
― オリゲネス、『マタイ福音書注解』より引用
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