Q & A 真の一体性とは
Q:万物すべてが一体であるというように、MARTHさんはおっしゃられています…。それは、どんなところからそう想われたのでしょう。
MARTH:
そもそも、科学的に見ても電子、素粒子、それをなんと呼んでも良いと想いますが、そのような単位で物を見るとすべては一体物であり、すべてはつながっています…。すべてはその未知なる何かで出来ている…といったところから、そのことを伝えているとも言えますが、実際私は、若き日にメディテーションというのでしょうか、瞑想を日々行っていたのですが、マントラを使い、深く入ってゆき、そしてスートラによってより深く入ってゆく中で何度も何度も経験したことがあります。私はそれを真我と呼んでいるのですが、万物全体というのか、一体の何かとてつもなく至福な、とてつもなく光り輝く、なんとも言えない、言葉では言い表せないほどのなかに参入してゆく、という経験を何度も何度もしました…。要は、私とか自分というのは、ある意味その中では存在してはいるのですが、自分が誰かとか、地球のこととか、通常の顕在意識のことは一切忘れていて、考えもしない。まるでエクスタシーを感じているときに何も考えられなくなるようなもののもっと激しいものであるというふうに感じました…。
その中に溶けてしまう。それ自体になっている。その中に漂っている、そのような体験を何度もする中で、「ああ、このなんだかわからない万物のとてつもない至福の中に本当はあらゆるものとあらゆる人々はみんないる。その一部分というかそれ自体というか、その中に入ってゆくと、そこに溶けてしまうと感じました。要はそこでは、私はいるのだけれど自我というものを失う、分離というものは存在しない、要は思考が全く存在しないので、何という幸せや至福なのだろう」と想いました。そのときに私は、この世界のことを様々な人々によって、神の名前をつけたり、私はそれをたまたま真我とか大我と呼びましたけれども…。それを色んな神の名前でそれぞれの地域や民族、様々な違いによってその体験をした人たちがそれを神と呼んだのか…。
ただ、私はその体験を何度も何度もする中で、自分と他とか、自分と神というような分離感はなくて、それそのもの、その中に溶けているので、その中の一部分に、もうなってしまっているので、そのような中で自我と誰か偉大な存在が会話するとか、そのようなことは全くありませんでした。ただただそこに溶けて、幸せな中に在るという、そのような体験でした。
ですから、私はその時、それは10代の頃のことですが…「ああ、この世界はすべてそれの中に在る、一体であるすべて、その真我のなかなのだ。すべてはそれに抱かれている。すべてのものは真我のなかの一部、いやそれそのものであると感じたのです。」ですから、すべてがひとつであるということは、すべてが真我の中であることであり、これがもし、ヘブライの人や古代ユダヤの人々でしたら、すべてはヤハウェのなかである、または父のなかである、と言う人もいるでしょう。また、主のなかである、とか、ラーのなかであるとか…。それはそれぞれの同じ体験をした人たちが、自らの文化の中でそれをそう呼んだというだけにすぎないのではないかと感じました…。間違っているかもしれませんが、そのように自分は感じたし、全人類がみな隔たりを超え、ひとつにつながることこそ本当の愛であると想うのです…。ですから、思考がどう想おうと様々な隔たりを超えて、みなは同じ一体のあるものの中にいて、あるものを経験し、あるもののなかでそれに溶けているということこそ本当の真理であり、すべてが一体なのではないかな、と自分は感じているわけです…。
MARTH
2019年3月6日
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