Q & A 真の成功は一体性と共にある
Q:MARTHさんにお尋ねします。
MARTHさんは、若き日大変な事業家でした。この世界で大成功をされ、地位も名誉もありとあらゆるものを持っておられたと想います…。しかし、それをすべてやめてしまい、捨ててしまいました。でも私は、そのようなことになったことがありません。私は成功したいし、豊かにも、地位や名誉も欲しいのです…。それはなぜ問題なのか、知りたいのですが…。
MARTH:
そのようなものを持っていることが問題なのではなく、そのようなものを持っている人たちが、本当にもれなく幸せであるのか…ということが、何よりも大切であることでしょう。そのようなものがあろうがなかろうが、一体性を持っていなければ、あらゆることが苦しみに襲われてしまうのではないかと感じてなりません…。あらゆる人々が、そのようなものを持っていようが、持っていなかろうが、分離を信じて生きるとき、あらゆる問題は生まれ出て、苦しみを抱えることでしょう…。ですから、大事なのは分離の問題であって、自己を拡大したり、成功したり、すごくなることでは、問題はなくなるどころか増えてしまう可能もあるのです…。一体性を持つ(本質、本当の自分に帰った)ことの上に、それらがあるのなら、それはすばらしい体験となることでしょう…。なぜなら幸せとは、分離が終焉することであり、自らへの問題やメッセージが起こってこない至福であり、本当の自らのふるさとに帰った時にあるものであり、そのときにこそ、そこにある真のやすらぎと喜びであるからです…。ですから、もし、分離が終焉しているのならば、地位や名誉や、またお金や、ありとあらゆるものはあっても素晴らしいことでしょうし、それゆえ、なくても良いのです…。
それではもっと、なぜかをお話します。
この世界は、人類が素粒子と呼んでいる、また電子と呼んでいる、または原子と呼んでいる、原子核、陽子、中性子、そう呼んでいる未知なるもの、とても細かいもの、それは生まれたり消えたり、物質とも本当は言えない、特殊な動きをするもので出来ています。そして、それらが集まり、分子というものが存在します…。分子と呼んでいるものは、腐食酸化します。しかし、電子はそのようになりません。逆にいうと、電子や素粒子は腐食酸化しませんが、分子は腐敗し、酸化し、変化します。そしてそれはエントロピー増大と呼ばれます。さぁ、分離は、エントロピーの増大を示すのでしょうか。電子も軌道を乱すのでしょうか。そうなのです、そのとおり示すのです。分離というのは、一体でないということです。素粒子の世界、原子の世界は一体の世界です。すべては同じもので出来ているとき、安定し、やすらぎます。そして生まれ消えを繰り返す、まるで原子映画のようなものです。この宇宙の素材すべて、この万物の素材すべてが、想念に影響される、そのような出たり入ったりの不可思議なもので出来ているのです。そしてそれは、互いに同じものであり、愛し愛され、つながり続け、とわに一体なるものです。そして、そこから構成される分子が破壊され、腐敗してもなお、元のまた原子に戻ります。そしてまた、その原子から分子が生まれてゆきます…。そしてこの最大の特徴は、一体である、同じものであるという特徴なのです。科学はそのとわに神秘なる夢のようなものを解明しようとしているのです。そしてこれは、ある意味物質映画のような、夢のようなもので出来ています…。その元は、素粒子と呼ぶような細かきものです…。ですから、古代の人たちは、それを、それゆえにつくづく信頼できる神の夢と呼びました。とわに続く、それは真に科学的なことであったのです…。それゆえに、この世界は真我の夢である、神の夢であると、古代の人々は深く深く感じていたことでしょう…。
そして、その子ども(一部)である私たち人類は、ひとりひとりが創造の子であるゆえに、その万物意識の一部ととらえられてきました。そして、その創造の子であるゆえに、創造の一部を担い、創造を許された部分たちであったのです…。そのようにとらえていた古代の人々は、私たち人類の誰しもが創造の子であるゆえに、自分の範囲を創造することが可能であると気づいていたのです。もしそうでなかったのなら、マントラやスートラは生まれなかったことでしょう…。それらは、自分の人生を、自分で創っているという意味でもあり…。それが、この美しき世界の法則であり、想念に影響される、消えたり、現れたりする素材で出来ているこの原子、素粒子の世界の特徴なのです…。
ですから、その原子と呼ぶ素材で人生を創造してゆくには、どのようにすればよいのか、という問題です…。
それは、ヴェーダが教えるように、またはメディテーションが教えるように、真我に帰る方法と共通なものなのです…。
それはマントラ(意味なき言葉)を使い、深く深層に入ってゆき、変性意識(全体意識)的なものにかえり、そののち、スートラ(意味ある言葉)を使うことで現実化する…。これが何を意味するのか、それは、変性意識のときにこそ、実はリアリティー(真の現実)本当の世界であり、この世界は現実ではないともいえるのだという気づきでもあったのです…。そしてそれは、量子力学が見つけたものに酷似しているゆえに、この世界はとてつもないことが可能な、とわに美しき神秘なるところであるともいえるでしょう…。ですから、一体な意識、真我に帰ったような意識のとき、物質は実現するということでもあり…逆に言えば、深層心理の時に、物質化現象が起こってしまうということに他なりません…。ですから、深層心理の中で、物質化現象が起こっている。これが、量子力学でやっと人類が気づき始めた、見ているとき、意識している時に月はある、の本当の意味であり、この素粒子の海の世界であるのです…。それゆえに、私たちが深いところで感じていることが、私たちの人生を創ると言ってもよいのです…。万物全体は神の夢、創造主の夢、真我の夢、何か大きな意思によって創られています。それゆえに、夢と同じように果てなくとわに続くように存在します。そして、その夢を創る創造の子である部分部分の人生、それぞれの人生は、その創造の子である、その部分である個々に任されていると、とらえたらどうでしょうか。それゆえに、深き想いなら実現してしまい、浅いものはさほど実現しないのも、そのためです。もし、そのときに自我が強いなら、その深き不安や恐れが実現してしまうでしょうし、深いところで感じていることは、実現し、物質化する、というように、とらえてみてみましょう…。ですから、あらゆる本物である目覚めた人々は、自我(妄想)の終焉を説いたことでしょう…。そのとき、万物の法則に合うゆえに、良くなっちゃうんじゃないか、うまくいっちゃうんじゃないか、すごくなっちゃうんじゃないか、ということを深いところで感じ、それは美しき人生を創るのでしょう…。そして、どのようなときにそのように感じられるのでしょう。それは、自分が本当にその天から愛される、万物から愛される、自然界から愛される、本当に真実から、ジャスティスから、善良さから愛される、万物一体の子として真に正しい道を歩いている、そのとき、自我の世の中から認められるかどうか、エゴの方々から愛されるかどうかなどではないことでしょう…。そのとき誰もがその愛の一部で、子であるゆえに、神々に、万物に、愛に、愛されるか、育まれるか、ということがとても大切で、それが深層心理の中で自分の道を見つけ、創ってゆくことにつながります…。では逆に、万物に合わない、一体の世界に合わない、科学的に良くない、分離を信じ、争いや戦いや、ケンカや、勝つことや、そういったことをもし信じてしまって、そのような科学的真実を知らず、争い続けている方々に、仮に地位や名誉やお金があっても、本当に幸せでうまくいっているのでしょうか…。愛の、神の、なんと呼んでも良いのですが、真の自分の美しさに合っているのでしょうか。本当の質へ帰りたいとする想いを本当に消し去り尽くすことは出来るのでしょうか。その愛のベースがないままの成功など、あるのでしょうか…。必死に目覚めてほしいと、自らにメッセージを送らないようにすることが本当にできるのか、それで済ませることが本当に可能なのか…調べる必要が本当にあるのではないかと感じてなりません…。自らに目を覚ませ、いい加減に本質へ帰れ、というメッセージを誰もが受け取り続けていて、悲しみのこの社会は、不正や悲しみに満ちてはいないのか…。その創造の主の子どもたち、愛の子たちは自らを目覚めさせたいと切に願い、気づきのメッセージを送り続ける可能性はないのでしょうか?自分は、大きな素粒子の一部、愛の子、万物の子、神の子として、何か正しくしていない、自分はうまく行っていない、という大きな気づきを、人類は良心の呵責と呼びますが、そのようなものは本当にないのでしょうか…。そしてその深き善良な想いが、その人の人生を生んで、育んでいるときは良いのです。そんなときは、その美しき物質映画を創ることでしょう。しかし、宇宙の法則であり、一体性にあっていない時の自分の中の不安、何かうまく行っていないと気づく力を誰もがそなわりもっているゆえに、何か間違っているのではないかという本質からきた不安が、創造が生み出したとしたら…。自らの愛が、善良さの基準が、自分への切なるメッセージの人生を創ります。それが物質化されてゆくわけです…。ですから、地位や名誉がほしいとおっしゃられました。お金がほしい、それは良いことでしょう。それが本当に一体性を持った愛の人ならば、素晴らしいことでしょう…。でも、もしそうでない場合は、その人はあらゆる面で自らにメッセージし、そう生きなければその結果として、あえてハートや人生は病むことでしょう。その方の周りも影響を受けることでしょう…。メディテーションというのはメディカルの元の言葉です。メディカルとは何かといえば、本来は一体に帰るということなのです。一体性から生きるということ、分離してしまった自我を終焉するという意味です。メディテーションとは自我の終焉です。真の自己、真我への帰還なのです。メディカルとは自我の終焉のことなのであり、自我の終焉、リアリティーに気づく、一体に気づくという重要な役目を持ち、美しき人類の新たなる世界を生むかなめであるのです。そこに帰るという役目が、本当のメディカルであり、メディテーションの愛であることでしょう…。人類はそこ(真の自己、真我)に帰らなければなりません。そこに帰って初めて、真の成功や真の繁栄があり、真の豊かさや、家族の幸せ、周りの幸せ、スタッフの幸せ、みんなの幸せがそこにあります。それをまだ持っていないなら、当然、愛のあなたは自分自らにメッセージすることでしょう…。目覚めさせようとし、伝え、起こし続けることでしょう…。この美しき世界は、そのような善良な法則の場所であるからです…。善良さがなければ、一体性がなければ、愛がなければ、目覚めろ、目覚めろ、本質に帰れというメッセージを自らが起こすところであるのです。人類の科学、量子力学は、そこへ近づいてきています…。私たちは、美しき自らへ帰るために物質映画も使うことでしょう…。自我が望まぬことも、起こすことでしょう。それは、本当の神々の望む世界へ戻す回帰の道への、そのための大切な法則であり、人類の美しき社会創りの安全ベルトであることでしょう…。ですから、自我や争いが強い同胞と共にいるということも、その人は目覚めるために自らにつらいメッセージを送りつづけている最中であり、共にいればトラブルに巻き込まれることは避けられないゆえの、覚悟がいることでしょう…。自らに間違った野心があったら、人生は望まぬ方向へ流れるように見え、しかしそれは、自らを正そうとする美しき力でもあるのです…。それゆえに、「偉くなるな、すごくなるな、勝つな、自我を拡大などするな、台無しだ」と教える愛は、真の親心でもあるのです。そして、そのほうが、「勝つと思うな、思えば負けよ」のように、美しく生きれることでしょう…。それは決して偉くならないという意味ではありません。それどころかすごくならないという意味でもなく、素晴らしくなる法則であり、勝つと思うな、すごくなろうとするな、地位や名誉を求めるな、そのとき初めて、真に至福と幸せと共に、本当の豊かさや愛や、その人の本質や素晴らしさが何よりも現れてくるという意味なのです…。他を勝たせようとする人々が持つ、万物からの贈り物であるのです…。
MARTH
2019年7月30日
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